性同一性障害の典型例、つまり 自己の性的同一性を明確に認識——身体との間には齟齬があるにせよ自分の人格の中核を成す性別には疑問がない——し、ヘテロセクシュアルで、性的自己認知と性別役割に葛藤が無く、その現象を「性同一性障害」として医療化することを受け入れている人にとって性的保守主義は甘い誘惑だ。
性的保守主義と抑圧
ここで性的保守主義とは、最も典型的な男、女という性に性現象のすべてを回収するものとしよう。彼らは例えば社会での男女の性別役割を自然で当然のものと考える。そこから外れる人を「男なのに○○」「女なのに○○」と自己の属する多数例を基準に評価する。同性愛は彼らに言わせれば例えば「女と寝るように男と寝る者」(レビ記18:22)だ。私が知人の男性同性愛者を見たり資料を読んだりする限りにおいて、これはたぶん不当なことだ。彼らの関係性が「異性愛ではない」のは自明なのに、なんで何もかもが異性愛と同じだと考えるかなぁ。フィクションによくあるような、レズビアニズムに男根主義を期待する心性もそうだし。
さてさて、これら性的保守主義は非典型的な性現象のあり方を抑圧する。それらを不自然であると言って攻撃したり、さも選択肢があるかのように「しかるべき場所にいるならいいけど、堂々と一般の場に出てくるな」という。特定の属性を持つが故に職業選択の自由を剥奪されたり自己の心情を表現することを禁じられたりすることの、どこが選択肢なのか。それはゲットーだ。だから、こうした保守主義は非典型的な性のありかた——性的少数者にとって脅威である。性同一性障害の典型例にとっても、基本的には。
誘惑
ただし、性同一性障害の典型例についてだけはこの抑圧からの逃げ道がある。
もともと性的保守主義は性差の本質主義と親和的だ。男と女は生まれつきある程度違っていてだから女がその母性によって子どもを育てるのは自然なことだし、男のほうが数理的能力に優れていて女のほうが感性が繊細で、とかいう。ここで、現代においてはこうした本質主義は、男女では遺伝子やそこからの脳機能の表現型が異なりそれが支配的なのだという主張に等価だ。この主張はある程度までは真実だろうけれども、本当に数理的能力やら言語能力やら、まして育児家事の分担までここから自然に導かれるのかどうかは議論を要する。性的保守主義はこの議論において高次能力や社会的役割にいたるまでかなりの程度自然に導かれるという立場に親和的なのである。そしてここに性同一性障害が登場する。
高次の精神機能の性差が生物学的必然であるとすれば、逆説的にそこには必ず性同一性障害がなければならない。人間の精神、例えば性的自己認知のような複雑な機構が生物学的過程において一件のエラーもなく形作られるなどということはほぼあり得ないからだ。だから性差が生物学的必然ならばエラーによって必ず性同一性障害は発生し、それは本人の選択ではないし、本人に何の責任もない。 つまり性同一性障害の典型例は、性差本質主義を採用すれば厄介な性的保守派からの否定的な視線から保守派自身の主張によって逃れることができる。さらに保守派にとってもメリットはある。性同一性障害者が自己認知と異なる身体や性的役割を受け入れようとして失敗してきた葛藤の深さをして「男女の本質的差異の大きさ」の論拠とすることができる。「" ブレンダ "を見ろ、性同一性障害もそうだ。ただ表層的な身体の形に合わせて自己同一性と異なる性になろうとしても無理だったじゃないか。男は男、女は女、生まれつき決まってるんだ」というわけだ。
性同一性障害の典型例にとってこれは魅力的な誘いである。得られるものは性的保守主義の抑圧からの脱却である。対価は他の後天的・文化的(である可能性のある)性的少数派あるいは男女にくっきりと線を引くことを阻む例、たとえば趣味的異性装者や性的自己認知が男女いずれでもない人に対して保守主義と一緒になってに石を投げることである。つまり性同一性障害の典型例はある種の本質主義に与することによって、性的少数者への抑圧を放置したままに抑圧される側からする側に移ることができる。
性差の本質主義がどの程度真実かは議論の余地がある。そこで本質主義を主張するのは自由だし、主張する人がたまたま性同一性障害であるということもあるだろう。ただそれは非典型的な性現象に対しての差別性を肯定しないはずだ。そして、性同一性障害者が自己の信念に寄ってではなく単に生きるのに楽だからという理由で保守主義の抑圧に荷担するとしたらそれは悲しいことだ。