巨大数論の面白み ―― 現代思想 「巨大数の世界」

『現代思想2019年12月号 特集=巨大数の世界』を読んだ。かのフィッシュ氏による巨大数論解説に始まり、巨大基数や組合せ論や、古代ギリシャ以来もしくは仏教における巨大数、巨大数や数学的実体の存在論、永遠についての時間論、はたまたジンバブエドルなどを網羅している。巨大な概念を愛好する向きにはたまらない一冊である。またそれらのトピックが単に巨大であるという理由で任意に集められたわけではなく一定の相互関係を持っている点は注目に値する。

思想史ないし数学史の延長上における巨大数の位置付けは「情報社会にとって『数』とは何か」という大黒岳彦氏の論で述べられていて、これも大変勉強になった。現代の、なかんずくヒルベルト以降の数学が経験的世界から離陸して形相を契機とするようになったというのは確かにそうだし、その流れの中で数学が閉じた自己言及的円環をなす過程で数学基礎論が生まれたというのはきっとそうなのだろう。これに対して一般に巨大数への関心が質料的契機を持つというのもまた間違いない。

一方で巨大数論のファンとしてはやはり、フィッシュ氏の意味での巨大数論が興味深いのは円環を経験的世界にある意味で接地させる奇妙なバイパスとして機能している点にある。 大きな数が面白いのはそれが経験的世界から見て著しく大きいからに他ならないが、その大きな数を競うというアマチュアの遊びが比較的すぐに純粋数学の自己言及的円環を成立させる要たる基礎論の言葉によって理論化されるというのは感動的というほかない。これは純粋数学の力強さを象徴するようでもあり、離陸した円環が落とす影が経験的世界において意味を持つ(おそらくは論で言うところの「下への超越性」によって)ことが、プラトン的な数と経験的世界の紐帯をほそぼそと復活させるようでもあり、そうして興味深いとともにアマチュアの営みがそこへ繋がることがいささか小気味よくもある。

巨大数論の面白み

私にとっては巨大数論の面白みは「寿司 虚空編」004 p.11の「ωだ」の一言に集約される。まさにこの1コマを見たために巨大数論のファンになった。

「ω」だ 小林銅蟲, 2015, 寿司 虚空編 004, p.11

この感動を伝えるには、まず巨大数論のある種の退屈さを述べなければならないだろう。

巨大数が数学の主流から見てトリヴィアルであるのは確かである。任意に大きな自然数は存在するのだし、純粋数学の円環の一部としての必然性も無しにたかが大きな数を作って何が面白いのだろうか。実際、私は現在の日本の巨大数論が生まれた場のすぐ近くまで寄りながらさしたる関心を払わなかった記憶がある ―― 本書におけるp.19「巨大数論発展の軌跡」によれば、現在の日本の巨大数論は2ちゃんねる数学板の「一番でかい数出した奴が優勝」スレに始まっているそうだ。私も同時期に数学板に出入りしていたからこのスレタイは見覚えがあるが、敢えて深く読み込もうとは思わなかった。

一方でそこには素朴な楽しみがあったはずだ。p.82「歴史的に見た巨大数の位置付け」やp.109「巨大数の経験」で仏典の例が挙げられているように、大きな数はそれが擬似的に経験の限界を超越するゆえに人の興味を引く。こうして生まれた大きな数を挙げる遊びが、まさに遊びであるがためにその後につながっていく。

任意に大きな自然数は存在するが、この遊びで勝つためには有限の手続きでその数を述べられなければならない。また、グラハム数Gを挙げることは容易だがこれはG+1に負ける。しかしまたG+1+1+1と後者を挙げていく戦略はもちろんG+Gに負ける。そしてそれらのどれよりもGGが強い。 こうして、大きな数を挙げる遊びはより急速に増大する関数を構成することにすぐさま帰着する。そして、後者から加法を、加法から乗法を、乗法から指数を構成していく過程は空集合から順序数を構成する過程と同型となり、言われてみればほとんど当たり前なのだが、このように巨大数を挙げたり2つの巨大数を比較することは順序数のそれと対応付けられるようだ。そして遂に、現在の巨大数論の先端はωを超えてε0に対応する関数に至る。 巨大数論はそれがアマチュアの遊びに由来することによってむしろ必然的に、順序数や、計算可能関数や、ラムダ計算といった非自明な説明を必要とする。

つまりは、p.14の対談における鈴木真治氏のコメントにまったく同感で、たかだか有限の数――それも大きなものを挙げて勝つという他愛もない遊び――が超限順序数のような無限の世界のものと結びつくというただその一点が何とも愛おしくてならない。