ソーシャルブックマークコメントと指さしの比較

経緯

サーチエンジンへのインデックスを拒否できるのと同じような意味で、はてなブックマークからのブックマークを拒否できる選択肢があっても良いのではないか、という意見を読んだ。mb101boldさんの「 技術的に可能かどうかはわかりませんが、もうそろそろ「はてなブックマーク」に、自分のサイトをブックマークされないようにする機能を実装してもいいのかもしれないですね。 」だ。

mb101boldさんは自分がそうしたいというのではなく、あくまでも1つの可能性として「ブックマーク拒否」を考えているようだ。単なる私怨に基づく「無断リンク禁止論」とは違うようだったので、 続く記事 には私もコメントを付けた。私が述べたのは原理原則論で、webを特殊なものと思わずに一般化して考えた方が良いのではないかという話。「言及されない自由はあるか?」というところね。

で、その次の Deathさんのコメント には興味を引かれた。

個々人が運営しているところに何か書かれるまではいいとしても、ニコブ(もうないですが)とかはてなとかのような不特定多数が同じ場で同じものをネタにできる環境に入れたくないという心理は別に特殊ではないと思います。反論・批判されること自体がイヤなんではなくて、相手が多すぎて応戦のしようがなくなる状況がイヤなんではないでしょうか。

感想

おー、なるほど。私はこの種の意見の源となる感情を初めて少しは理解したかも知れない。 自分が頑張って書いた作品を集団で酷評されたら、それは愉快ではないよ。取り囲まれているように感じるとしたら、好意的な批評すら怖いかも知れない。 相手はちょっとした話のタネに情報を消費しているだけなのに、自分はそこに強く感情を揺さぶられるという立場の差。相手は多数で自分は1人という立場の差。力の差。これは怖いよ。

でも、それは表現を守るためには仕方がないことじゃないか。 そして、私は思った。もしかして、多数者からの言及を忌避する人々は、自分には変えようのないことで後ろ指を指された経験がないんじゃなかろうかと。

私見

オフライン世界はひどい。本人が決して知り得ない(Refererヘッダが送られてこない)ような場所でいくらでも陰口を叩ける。もっとひどいのは、悪意的な口調は聞こえるようにしかもその内容は聞き取れないような声の大きさでひそひそとものを言える(URIがない)。自分の接続元情報を送信することなしに遠くから嘲笑して、顔を見られないうちに逃げることができる(IPアドレスがない)。

好意的か悪意的か分からない言及でさえ、見知らぬ複数の他人から短時間に、その内容が分からないような形でやられるときついものがある。 私は性同一性障害に向き合う中で、そういった事例を多く聞いてきたし、自分でもまあ、幾らかは体験したことがある。興味本位の視線に晒されるって言うのは、そりゃあ気分がよいものではないさ。カムアウトしてる最中の会話が漏れて、そのときいた店の店員が代わる代わる見に来たこともあったな。で、後ろでひそひそ話してるの。あのー、全部聞こえてるんですけど。

で、だ。その発言内容に失礼があれば謝罪を求めよう。指さすような明白な無礼な振る舞いがあれば謝罪を求めよう。問題の根本に偏見があることが明らかであれば、知識を提供し理解の改善を求めよう。 けれども、オフライン世界ではそんなはっきりとしたログが残ることは本当に少ないのだ。発言内容は明瞭には聞き取れず、振る舞いは何とでも解釈でき、証拠があるかといわれればすべては当事者の主観でしかない。事後検証は事実上不可能だ。

かといって事実の検証を放棄して「問題行為があったおそれ」という理由に基づいて謝罪だの理解・学習だのを要求したら、そりゃ、たちの悪い圧力団体だよ。 では、往来で見知らぬ他人に言及することを禁じる法律を作るべきか。あるいは、熱光学・音波迷彩技術があったとして、私たちの社会はそれを受け入れるか? 無理だろう。やだよ、そんな社会。

要するに、オフライン世界はその不完全性故に少数者にとって圧倒的に不利な環境だということだ。そして、性急に改善しようとすればどうしてもより大きな歪みを生んでしまうということだ。

その点、webのなんとフェアなことか。いくらネットイナゴが群れてきたところでその行動は記録が残る。 個々の発言内容を知ることができるし、内容を吟味して反論できる。後から第三者を連れてきて公正な判断をくだしてもらうことすらできる。

結論

私が元記事のコメントにも書いたように、「自分が不快にならないために、その場の強者である多数者に沈黙を強いることの問題」というのはwebに固有のものではない。それどころか、webという場では大幅に問題が改善されている。

それにも関わらず、なぜwebではかくも問題になるのだろうか。webという場では皆がカジュアルに表現を公表できてしまうからだ。 オフラインのように「指さされず」にいたければ、オフラインのように公の場ではおとなしく目立たず何も言わずに居れば良いではないか。それでも何かものをいいたければ、自力で私的な場を確保すれば良いではないか。SNSでも何でも。

自分はありのままでありながら他人からむやみな好奇心の対象にされたくない、という気持ちは分かる。しかし、その気持ちを押し通すことはあまりにも他の社会的価値を損なうだろう。どのように損なうのかは、オフライン世界で同程度に厳格に適用することを想像すれば容易に分かる。

で、何? 多数であることはそれ自体が暴力だって? そうだよ。でも、あんただって多くの場面では多数者だろうに。それを理由に沈黙するのか? 沈黙を強制するような、そうやって社会に無理を押しつけて特定の権力問題を解決することが許されるなら、フェミニズムも人種問題もとっくの昔に発展的解消してるよ。

どうしてそういう想像ができないのか。それはオフラインで、いわれなくそういう目にあったことがないからだろう。

言いたかったこと

「自分は不快だが、それでも表現を守る」と言えないのはその決意が必要であるような場を経験していないからに違いない。そうだとすれば、無造作に振る舞っても問題とならない立場に居続けたということであり、とても恵まれたことだ。残念ながら、世の中はいつでもそれが通じるほど単純ではない。少しは分かったか、このオフ充どもめ。やーいやーい。

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