何か、少しは身をもって体験してみて、自己同一性というものが存続するために必要な物はそんなに多くないなと思うようになった。
事例
感情。感情は化学物質に影響されて容易に変化する。抑うつ症状も、錠剤一粒で改善する。さっきまであんなに死ぬことで頭がいっぱいだったのに、薬だけで変わってしまう。アルコールだってそうだよね。
思考パターン。思考パターンは誰だって時間が経てば多かれ少なかれ変化する。私の場合はGIDに対するホルモン療法を始めた前後での変化が甚だしい。これを化学物質の直接的な作用と談じるのは軽率というか、ずいぶんと性差本質論的な気がするけれど。ホルモン療法によって私の性別違和はいくらか軽減されていてそれが自己に対する自信が回復したし。時を同じくして私は学部を卒業して環境も変化しているから、一つの原因に絞り込むことは難しい。
いずれにせよ、2003年の私と2006年の私は思考のパターンが違う。物を置くとき発想パターンすら変わったので2003年以前にしまったものを探すのはとても難しい。
身体。性別違和が軽減した、というのは私の身体に変化があったということだ。それでも、私は昔の私を自己であると感じることができる。その自己は、常に身体感覚の異常に脅かされてこのままでは自己を維持できないと感じていたが。今も、軽減したとはいえそうであるように。
ただ、あれほどまでに自己が脅かされる恐怖を味わっていてもなお、それは自己であった。身体感覚と性別属性は自己同一性に必要なものではあるけれども、そのすべてではないと考えられる。大体が、身体が経年変化するような体験は程度は少なくとも皆体験しているのだし、身体を構成する原子は短期間で入れ替わってしまう。身体は自己同一性ではない。
必要なもの
自己が自己であるために必要なのは、性格でも習慣でもなく連続した思考でもなく身体の不変でもなく、ただ自己が一貫して自己であるという錯覚、周囲がまた一貫して当人であると見なす錯覚、であると感じられる。
SF
そうであるならばイーガンが『 ディアスポラ 』で描いたような自己の複製はやはり不死そのものだよね。そして、イーガンが言うように自己とは分割不能なものでも、唯一のものでもない。
最近読んだものだと、『 ゴールデンエイジ 』も一貫してこのテーマを考察していたよね。パーシャル、サカンダス、コンストラクションと果てしなく自己と自己の派生物を生成する人々。
GID
身体が自己同一性に重要であっても、そのものでないとすれば、GIDとはなんだろう。私は自己同一性と身体における性別の不一致に悩んでいる。悩んでいるというか、自己同一性を維持することの困難を覚えている。また、絶えざる苦痛を感じている。
しかし、自己のために身体が必須でないならそれはなんだろう。私は考える。自己の性別同一性に関する確信はおそらくは生得的で、今研究されているように分界条庄核なりなんなりに由来するのだろう。しかし、性別同一性と身体、性別同一性とジェンダーの一致を求める感覚は社会構築物ではないか。それの観念は改変可能ではないか。
この問題は5年前にある人と論争したとき以来考えていた。その人は「性別同一性は身体的性別(解剖学的、遺伝的、その他をごたまぜにしたその人が信じている何らかの幻想)に従うべきである」と考えていた。話しているうちに、その人は「では真正なる男性と真正なる女性以外は『その他』という自己同一性を持つべきではないか」と言い出した。真正なる男性・女性なるものはその人が思っているほど多くはないだろうけどね。人口の6割ぐらいかな。
ま、ただ、私はその時述べた。「その他」ないし「性別属性該当無し」という自己同一性を持つことは不可能ではなかろうと。うん。ただ、それは余計に適応を妨げるだろうけどね。なぜならば、我々の社会は男性・女性という性別属性にまみれて存在していて、その両概念に拠らなければ性別にまつわる諸概念を述べることすら難しいからだ。
分界条庄核か何かに由来する生得的ななんらかの感覚がある。その感覚に適合しうる身体状態の枠を規定する性別概念は変更可能であろう。また、その感覚に適合しうるジェンダーロールの枠を規定するものも変更可能であろう。しかし、私たちは一人ではないのである。私たちは社会の中に生きていて、社会に規定されて同一性を構築する。それ故に、枠を規定する性別概念は結局社会がもつ性別概念と無縁ではいられない。
だから、その人の主張が「その他」の人々に対する自己同一性の破壊、精神の蹂躙、人権の侵害でないためには、社会が「その他」という性別を「男性」、「女性」とまったく等しい意味での性別属性であると認識しなければならない。そうでない限り「その他」という同一性規定は社会が要請する枠の規定とは食い違い、結局は自己同一性内部における感覚の矛盾をもたらすだろう。自己同一性を脅かすだろう。
「その他」というのがその定義上、男女概念に依存しているのは明らかであって、それが男女と等しいというのは語義矛盾なのだが。ただ、「無性」であるとか「性別? 何それ、おいしいの?」という性別規定はありえるだろう。社会が要請する枠にそれらの規定が取り込まれることはとても難しかろうが。
残念ながら、その人は「人とは男か女であって遺伝子からジェンダーロールに至るまで一貫して男女である」という世界認識を変えたくないだけにしか見えなかった。だから、きっと社会が要請する枠がそのように変容することは、今ある現実を受け入れる以上にその人の世界認識を脅かすだろう。返答はなかった。
今の社会がそのように枠を変容させることは、あまりにも多くの人の世界認識を脅かす。だから、私も「性別? 何それ、おいしいの?」が枠に取り込まれることが適切であるとは思えない。それは生殖も含めたすべての社会にまつわる作用から性別が駆逐された社会でしかありえない。gender equalityという観点で政治的に適切な社会ではなく、まさにジェンダーフリー・バックラッシャーが危険を喧伝するようなジェンダーレスな社会だ。そんな社会が今、適切であるとはとうてい考えられられない。故に、性別同一性とジェンダーの一致を求める感覚が社会構築物であったとしても、私たちはその中で生きるしかないのである。
再びSFに夢想を求めるなら、『ディアスポラ』のように生殖が精神の複製・合成として行われるようになればそういった社会の出現はありえるだろう。そのときに、思考実験としての「一致要請感覚」の改変は実現しうる。
故に、本質でないとしても自己同一性の中に性別属性が、私たちの社会のために必要なのではないかと考える。