身体性について

久しぶりに性別違和感が辛くて泣いた。普段だってそれが辛くないわけではないのだけれども、それを直視しないでいられるように訓練を積んでいる。そうでなければ生きていけないからだ。

離人

一方でまた、私はもはや離人感を体験することは稀になった。かつてはそれが日常だったのに。私は私の外側にいて、私は私を常に批評し、私でない私の思考を聞いていた。世界は私から遠くにあって、私は私でない私を通じて間接的に世界に触れるのみであった。そして、客体である行動する私をもって私は性別規範に合致する像を世界に提供しようと試みた。

私を私の自己同一性に合致しないものに改変するのは辛すぎるから、だから、私は私と世界によって改変されようとしている私と、私の自己同一性に合致しない身体性を、私の外側に置いた。あるいは、私をそれらの外側に置いた。

けれども、私が、私にとっての客体である私を通じて私でないものの振りをするのは私の演技力では手に余った。また、客体である私も畢竟私の変種に過ぎないのだから、いくら切り離そうとしたところでそれが真に人格の解離にでもならない限り、結局は「本体」である世界の外側にいる私、の同一性を浸食してくる。

結局、辛さから逃れようとしたところで何も得ることはなかった。だから、私は私の自己同一性をもって世界に向き合うことに決めた。2000年8月26日のことである。

そして、離人感は徐々に薄れた。世界が遠くにあるように感じたり、私が私でない思考の声を見つめていることは少なくなった。私は、私による思考を取り戻した。

身体性について

かつてのように身体や私の思考の外側に私があったならば、いくらか楽であったろうか。そうかもしれない。私が私の外側から私の思考を見つめて、私の外側から私の行動を見つめていたのは、それが楽であるがための逃避であったに違いない。

それを肯定することができたならば。つまり、人間の同一性、人間の尊厳に身体は含まれないと確信することができたならば、私は救われるだろう。私の身体は器であって私ではないと考えるならば、私の自己同一性が自己破壊することはなくなるだろう。けれども、私はそれが正しいと思わない。また、社会がその価値観をすぐに認めると言うことはない。人々もまた、その価値観を正しいとは思わない。

私がその価値観を正しいと思わないのは、かつての私がそれを支持しようとしていたからだ。身体は精神の器である。身体は肉の塊である。身体は精神の牢獄である。精神は自由である。精神は性からも自由であり、精神を肉体に基づいて束縛する文化、例えばジェンダー規範はすべて悪である。性差廃絶主義者。

今は、かつてのその性差廃絶主義者としての主張が辛い現実から逃れるための欺瞞であったと知っているので、私はその主張を否定する。

思えば、イーガン『ディアスポラ』においてさえ人はゲシュタルトの像としての身体を持ち、リニアに統合された体性感覚を持っていたのだ。ここに、人間にとって有用なAIには体性感覚が必要であるに違いないという私の根拠のない予測があるのだが、さて。

人間の未来について

人間はいつか、人間性だけを残して人間でない何かになるべきだ。イーガンに影響された私の今の主張である。人間を今人間がそうであるような様と定義するならば、そこには多くが含まれる。人間性は保存されるべきだ。人間性人間性の保存への欲求を内包している。

けれども、人間が今そうであるさまのうち人間性に含まれない部分は必要に応じて除去、置換、修正されるべきだ。虫垂や、歯のエナメル質や、低速な化学プロセスを基盤とすることはその例である。

人間性は保存しなければならない。そのことと、人間が今あるさまは両立しない。生化学プロセスなどは精々資源を投入してもあと数千億年しか維持できない代物なのだから。太陽系から退避すれば地球の消滅後も生化学プロセスを維持することは可能だろう。けれども、宇宙航行において生化学プロセスはあまりにも脆く、結局のところは何らかの改変を必要とする。

神経接続による機械の制御、また逆に機械センサーによる神経への情報入力、コンピュータによる生体の操作は既に各々動物実験あるいはそれ以上で成功していて、だからその果てに人格のアップロードを目指すべきだと私は思うけれどもね。人間が人間であり続けるためには。

と、そんな、現段階ではSFでしかあり得ないような遙かな夢想においてさえ、私は人間性には身体性が含まれると考える。人間は、身体感覚あるいはその系譜に連なる何かを持っているべきだ。身体性なき思考、身体から乖離した精神は人間ではあり得ない。

私の日々にとっては辛いことだけれども、それが私の確信なのだ。