科学への信仰

NATROMさんという方の「 科学主義は、疑似科学と同じぐらい有害だ 」を読んだ。私が漠然と思っていたけどうまく言えなかった内容に近い。でも、このサイトはとても分かりやすくまとまっている。

この人の用語法とは少し違うけれど、私は「科学教徒」だ。科学的事実はすべて真実であると信仰している(正確を期すなら、「科学的思考が導く方向性は、科学における主説をして真実たるものに漸近せしめつつあると確信している」)。でも、これは信仰なのだ。真実について、科学が聖書よりも正確な情報を提供してくれるという保証はどこにもない。少なくとも科学の中にはその保証はない。ある仮説が科学的事実であるか否かについて科学は回答できるが、科学的事実が真実であるか否かについて科学それ自体は何も保証してくれない。それでも、私は科学的事実は真実であると確信している。科学的事実と聖書の記述が矛盾する故に、逐語霊感主義(聖書の内容は一字一句そのまま事実であるという思想)は間違っていると思っている。これは信仰である。

ただし、私は科学以外にも真実へ到達する方法があることを否定しない。でなければキリスト教徒を自称したりしない。神の実在や人権主義の正義を私は信仰しているし、少なくとも後者の問題について科学は絶対に回答し得ないと思っている。前者も多分回答し得ないだろう。

私の信仰はそんな感じ。NATROMさんが言う意味での「科学教」の信徒、つまり傲慢に宗教を見下す類の人々は、自分が科学を「信仰している」という事実を知るべきじゃないんだろうか。そう言う意味では、『 悪魔の発明 』に収録されている牧野修の「<非−知>工場」は良かった。