たとえば、なぜ凶悪犯罪者にも人権を認めなければならないのかという議論があったり。'''区別'''されるべくして'''区別'''されている人々を'''区別'''してはいけないのかとかいう、たとえば、元ハンセン病患者の宿泊拒否事件にいて唱えられたようなそういう素朴な疑問を口にする人がいたり。
件の宿泊拒否事件でのホテル側の対応が理由ある正当な区別なんかじゃなく、まごう事なき不当な差別行為であり人権の蹂躙であるということはもう繰り返さないよ。で、さて、こんな面倒な議論をしてまで人権を守らなければならない理由とは何か。
単純に、人権はいかなる人間であれ保障されなければならないというドグマを皆が信仰していなければ皆にとって危険だからだろう。
特定の理由により人権が保障されない社会システムはルサンチマンを呼ぶ。その溜まったルサンチマンはどこかで吹き出す。私は唯物史観を支持しないけれども、その用語を借用して「不断の階級闘争」と擬してもいいだろう。いや、ここでは階級の転倒は本質的な問題ではないからミスリーディングな用語かも知れないけど。ともあれ、当人にとって不当な理由で人権が剥奪されている階級が存在するシステムというのは、システムが本来保護するはずだった人々にとっての脅威でありつづける。
だから、一番楽な選択肢として万人に人権があるというドグマを信仰するんでないのかな。システムにとっての外部が存在しないのなら、外部からの脅威というのは存在しようがないのだもの。
ま、歴史的には、外部を持つような差別システムを構築してはみたけれども実際にその脅威が向かってきて、その力の前への妥協として被差別集団の人権を認めてきたという部分もあるよね。
早い話が、踏みつけられた人間の恨み辛みを舐めるなよ、というか。システムの存続のために、「何も悪いことをしていない真っ当な人」の健やかな社会精神生活を守るために「そうあるべくして生まれた自己」が収奪され続けるなら、その恨みはシステム全体に向かうだろう。「ブルジョアの豚」とかいうそっち方面の分かりやすい表現はシステムそのものへの憎悪をはっきりと示しているよね。
そういうわけだから、多少の不合理はあっても(そもそもそれが不合理であったのかどうかは大いに議論の余地があるけれども、仮に不合理があったとしても)、人権主義というドグマを守るためなら、最終的にはそれがより多くの人の幸せに繋がるんでないかな。
なんていうかな、犯罪歴のある人間を無用に排除したりとか何というアホなことをしているのかと思う。そうして、特定の人々を闇の中に追いやって、その蠱毒の中からはい上がってくるものが向かうのは結局は昼の人間なんだってばさ。自分用の蠱毒を作ってどうするのさ。この社会ってのはひょっとして自殺が趣味だったりするんだろうか。悪趣味なことだ。