ハルヒを読んでみた

一部のオタクたちの間で評判の『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでみた。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

数年前に書店で手に取った時は、「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」たらいう主人公の自己紹介シーンにどっぴきして、本を閉じたのであった。でも、このたびいくつかの理由から改めて読んでみることにした。

  • 「面白そうなくだらない馬鹿騒ぎには首を突っ込む」というのが私のポリシー。最近のハルヒブームは私の中で「くだらない馬鹿騒ぎ」に認定された
  • RubyKaigi2006の二次会で、babieさんたちのテーブルが「ハルヒを読まなければRubyistでない」雰囲気を醸し出していた
  • YouTubeで第2話を見るに、アニメーションの構成が文学的に秀逸。それに敬意を表す。

babieさんが「ハルヒはまず最初の4冊を買え。そうでないと2冊目で挫折する」と言っていたので4冊まとめて買ってみた。

これを読むに、ハルヒはただひたすら、 澁澤先生流の快楽主義者 なのね。それで面白いことに飢えていて、自分の正当性を常に疑わない。これには共感する。私も快楽主義者たらんと志す身だし、選択肢をあたえられたら「面白そうなほう」を選ぶし、「世界は私のためにある」という家訓の下に育てられてる。そして、また、快楽主義たることに費さなければならないエネルギーを描き出すという点でもハルヒ像を素晴らしいと思う。私は、くだらないことに無駄なエネルギーを注ぐ人間が好きだ。

比べてみるに、私自身は この世界は解決を待っている魅力的な問題でいっぱいだ と知っているから、教養の上に快楽主義を打ち立てようとするにあたって宇宙人などなどの非日常は要しない。というか、非日常は非日常でその楽しみは分かるのだけれど、性的マジョリティにとっての常識的世界像からはみ出る性的マイノリティとしての自分だけで、常識的世界の矮小さを打ち砕く楽しみは割と間に合っている。だから、ハルヒのように非日常をわざわざ探索しようとは思わない。

でも、来るものを拒む理由はない。変なものに満ちあふれた日常はそうでない日常よりも常に面白い。だから、別に探そうとは思わないけれども「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい。以上」。