マシンリソース量を媒介とする情緒的メッセージ運搬に向けて

今日の夕食ディスカッションの結果。今日は久々に家族全員揃ってたな。時節柄、社交的コミュニケーションが話題となった。

人間の知的活動リソースを有効に活用するためには、機械化できることは機械化することが必要である。

しかし活動の効率化は徹底されない。コミュニケーションにおいては「あなたのためにこれだけのリソースを費やした。あなたは特別である」というメッセージの交換が行われていて、この交換は性質上、単純な効率化の対象にはならないからである。たとえば、「紙の年賀状に手書きでメッセージを記すこと」

そこで、このコミュニケーションを「あなたのためにこれだけのヒューマンリソースを費やした」の交換から「あなたのためにこれだけのマシンリソースを費やした」にすり替えてはどうだろうか。この文化変容はあり得ることだ。事実、上司宛の年賀状の宛名をプリンタで毛書体印刷することは失礼でない。年賀状のために、普段は使わないフォントを調達して印刷することがメッセージとして機能している。では、たとえば、将来においてこういうメッセージは存在しえないだろうか。「あなたとの過去のやりとりを私は大切に保存して、統計情報を蓄積しており、あなたとの会話は他の人よりも1桁小さい実行時間で研削できるようになっている。今回はあなたの好みに合わせてこれだけのFLOPsを費やしてあなたのための挨拶を生成した」

このようなマシンリソースの量を媒介とする好意情報の伝達を実現できたら、そのためにヒューマンリソースを費やす必要がなくなって真に建設的と言えるだろう。しかし、上のメッセージ例には問題がある。マシンリソース量をそれ自体として示すと露骨でいやらしいのである。これを露骨でなくすためにはマシンリソース量の暗黙の伝達はコモディティ化しなければならない。マシンリソース量が伝達されることは当然であるという文化がまず先になければならない。その文化があれば、非情緒的情報伝達においてはリソース量情報は単に無視され、必要な場合にのみ受信者が情報を抽出するだろう。

マシンリソース量伝達のコモディティ化のためにはどのような場の形成が必要だろうか。