アッチェレランドの身に染みる日

丁度 アッチェレランド を読み始めたところであった。

発端

今日、関東には雨が降っていた。一方、バブル期にある場所で、歩道の繋ぎ部分の表面に金属素材を採用した馬鹿がいた。そして、今日、そこを通りかかった私は金属部分で滑って転倒し、MacBook proの外装が損傷した。幸い主たる機能モジュールは生きているようであったけれども、接続ポートが幾つか潰れてヒンジも歪んでいる。下手に動かさない方がよいと思ってそのままApple storeに持ち込むまで止めておいた。

隔離

そういうわけで私はオフラインに切り離された。そして奇しくも手元には読みかけの『アッチェレランド』があったというわけだ。第1部後半を読み進むと、そこにあるのは思考拡張システムから切り離されて古典的生物身体に閉じこめられた人間の話じゃないか。こうして、なんとも身近に話を読んだのである。

この情報からの意図せぬ隔離は大変興味深く、記録しておくに値するものだと思った。

情報密度

皮肉だが、個人にとって都市は情報密度が低いのだと感じた。というのは、都市で公衆に供給される情報の殆どが個人にとってはノイズであるから。あと数年は電脳が追随できなそうな肉脳の編集機構によってノイズはカットされる。そして、意識である「私」に到達する情報は極めて薄い。20世紀的人工物のパターンはその規則性によって情報圧縮されるので、自宅近辺に溢れかえる自然物に比べると遥かに小さな情報量である。

私は自宅近辺で意図してオフラインになることはある。けれども、それは情報の摂取を目的としたものだ。ろくな交通網が内ので自宅近辺では東京への交通を除けば徒歩や自転車を強制される。そうして物理的身体を動かすことはそれに伴う情報入力を促すし、また周囲の自然物からの入力も得られるというものだ。

分散自己

私は、作中の人物のように情報隔離によって自己同一性を喪失したというわけではない。悲しむべきことに私の自己同一性はウェットウェアたる機能不全の脳に閉じこめられている。一方ではこれは、ウェットウェアの自己保存能力によって強固に同一性を保持できると言うことを意味する。

なんにせよ、今回私に奉仕する外部プロセスと私の活動を構成するデータから隔離された。私が利用している常時稼働の外部プロセスは精々が10足らずのUnixプロセスであって、作中の高度な分散エージェントに比べればなんとも粗末なものではあるが。

私の思考の中心は壊れた肉脳で稼働しているので、私は私のサーバーたちが「私」に奉仕していると感じる。けれども、なるほど改めて考えれば私は私の記憶と思考を外部化している。

私は私のスケジュールを記憶していないし、幾つかの日常的な行動の優先度選択を外部プロセスにまかせている。更に、私が取り扱う情報の殆どへの認証を、私は生物的身体単体ではパスすることができない。肉脳内部の記憶とディスク上の記憶をRubyスクリプトで処理して認証するようにしてある。私は、私に属するデータ、私が思考の糧としているデータ収集サービス、あるいは私がひらめきのキーにしている電子情報に、生物的身体単体ではアクセスできないのだ。

この発展の果てには確かに、私でないプロセスが私に奉仕しているというよりは電脳と肉脳のプロセスのの総体が私の思考である、という現象が発生するだろう。

感想

空気のように利用しているプロセス群と、コミュニケーションチャンネル、リモートストレージから切り離されるのは異様な体験であった。

それらサービスへのアクセスを取り戻すためにハードコピーから古いコンピュータに非常用チャンネル生成スクリプトを読み込むのに一苦労。非常用チャンネルで認証スクリプトとキーにアクセスして各種サービスへの認証キーを取り戻すのに一苦労。

そして、職場に連絡するのにも一苦労。職場の電話番号知らないし、大体、その時間オフィスに人はいなかったらしいから、結局非同期メディアでなければ連絡つかなかったもの。

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)