時間感覚について

今日、久しぶりに電車に乗り遅れてダウンした。交通機関の乗り換えやなんかは苦手だ。時間への正確さが明確に露呈するからだ。

何か予定を立てたら、1分でも遅れていることに気がついたら遅れているという事実が頭に残って一日中、私を責め立てる。そして、そんな状態だからまともに物事をこなせなくて被害は拡大していく。1分寝過ごしたとしたら、悲鳴を上げないでいるのに必死になって、そうしているうちにますます予定は遅れていく。

そこで、正確に予定を立てないことにする。ここで数字を考えると今度はその数字に縛られることになるだろうから明確には考えないが、予定の時間感覚精度に対して一定の割合までの遅れは許容できるようだ。だから、精度を低くする。具体的な数字を見ると1分/30秒刻みに頭が固定されてしまうので、アナログ時計は大まかに時刻を捉えるのに非常に役に立つ。そして、大体30分きざみの精度で予定を立てる。そうすればプラスマイナス数分なら予定からずれていても頭が混乱することなく暮らしていくことができる。その範囲で、「来た電車に乗る」ことにして発車時刻を気にしないようにすれば交通機関も問題なく利用できる。

しかしながら、交通機関の乗り換えというのは問題が難しい。乗り換えるつもりで時刻を調べてしまうとその時刻にかなり縛られる。乗り換えるつもりだったものに乗り遅れると最悪に混乱して、皮膚をひっかき回して耳をむしり取り目を抉りたくなる。耳障りな音に敏感になって、そういう音に酷い恐怖を感じる。頭の中がざわざわして、叫びたいのを、私は震えて我慢する。

これを避ける方法としてはやはり乗り換えにおいても時間を曖昧に捉えて来たものに乗るということに尽きる。この結果として乗り換えが発生するごとに30分から1時間のバッファが必要である。以前はこれを実現するために私は早起きして、結果としては大体予定時刻の1〜2時間前には到着するようになっていた。中学高校のときは7時に学校に着いてたかな。

なのだけれども、この方法は睡眠時間を削る必要がある。抑うつ症状が悪くなってからは、睡眠時間を削ると症状が酷くなるし、疲れやすくて必要な睡眠時間は長くなるし。あまり早起き手法を使えなくなってしまった。

そこで、仕方がなく予定の精度を半日程度に落とさざるを得なくなる。午前に何かをする。午後に何かをする。この程度の精度であれば睡眠時間を確保しつつ混乱しないでいられる。のだが、今日はうっかり午前中に間に合う最後の電車に乗り損なった。これで今日は活動不能だと見て、帰宅するまではなんとか、端から見てちょっと挙動不審なぐらいの様子で耐えたものの、帰宅するなり泣き叫んで転げ回った。本当に自分で回復不能な障害を加えないでいるためにはそうするしかない。そして、暴れ疲れて眠って、一日が終わった。

予定が変わるのがとても苦手である。そして、この予定変更による疲労はなんだか、蓄積する気がする。先日、あやうく予定の大幅変更を強いられる目に遭いそうだったのが、今回の酷い状況に効いていそうな気がする。

蔵書の配列に対する強迫観念は弱まったけれども、こちらは治らない。それにしても、この予定変更への弱さがソフトウェア開発のスケジュール修正では表れないのも不思議だ。1つには、私が開発スケジュールを1週間程度の精度でしか見積もらないからかもしれない。その規模であれば、確かに日常でも、スケジュールの組み替えにさえ対応可能である。それでも、週が月末に掛かる場合は月末の特定の日付・時刻とイメージが結びついてしまう危険性がある。