大相撲と大阪府知事

そういえば半月ほど前に、田辺聖子が大相撲について新聞に書いていた。大相撲大阪場所の慣例となっている大阪府知事賞の授与に際して、女性である太田知事を土俵に上げてよいかというあれだ。

結論から言えば私は土俵に上げることには反対なので、その通りになっている現状はまあ、よいのだけど、それに関する新聞などで目にした議論には2点不満があった。まぁ、この問題に関して雑誌類にはあまり目を通していないので、どこかの誰かは私が望んでいる論点をちゃんと取り上げてくれていたのかも知れないが。

第1の不満としては、手続きがある。これは田辺聖子も少し書いてたか。やはり美しい日本の伝統から言えば、知事からの公式な働きかけがある前に日本相撲協会側から「大変失礼ではあるけれど、土俵に上がって頂けない以上は賞は辞退したい」と伝え、それに対して知事側から「代役を立てるので是非受け取って欲しい」とくる、こうくるべきだろう。土俵に上がりたがる知事も、代役を要求する相撲協会も図々しい。

第2の不満としては、反対論者は大相撲ひいては日本の伝統的神道の価値観を相対化していないことがある。相撲協会の立場としてはフェミニズムに基づく合理性を要求されても困るというのは確かにその通りで、宗教的な善悪・聖性に関する感覚というのは「只そのようである(as is)」というところにその価値がある。少なくとも、そういう部分がある。何故それが正しいのか清いのかと言われても、そうであってそうと信じているからとしか言いようのない部分がある。それを否定したら多くの宗教は成立しないし、それでも宗教は必要なのである(必要ないという人もいる。ただし大部分は単に自己の信仰に無自覚な人であって真の無宗教者はそれほど多くはない)。

えっと、なんだっけ。話は逸れたけれど、とにかく、この種の価値観に対して無条件に合理性を押しつけることは正しくない。しかし一方では、この種の価値観を合理性や、その宗教の枠外にいる人の価値観に対して無条件に優先させることもまた、正しくない。私は「真理を伝える我々に逆らう人間は罪である。これ以上業を重ねる前にボアしてやるのが慈悲」という善悪の判断を正しいと思わないし、「逆らう者は腹を切って死ぬべきだ。地獄の炎に投げ込む」という教えも正しいと思わない。世の中にはこの種の価値観を合理的なあるいは枠外の価値観に対して無条件に優先させてよいと考える人もいてサリンをまいたりいろいろするわけだけれど、私は賛成しない。

では、この種の受け入れがたい価値観と、大相撲のように一定の支持を集めている価値観の違いはどこにあるか。端的に言ってしまえば数の違いなのかもしれない。しかし、どこかの新興宗教がテロによって政権を転覆し支持を集めるようになったとしても、それでもやはり反対者にVXガスを浴びせたりするのは正しくないと私は信じたい。だとすれば、根拠を数以外に求めるほか無い。もう一つ違っているのは(そしてこれこそが数の違いにもつながっているのだと思うけれど)トレードオフではないだろうか。

まず、知事を土俵に上げるとどのような利益があるか。まず、女人禁制とされた場所が1つ減ることにより、女性を不浄とするような価値観の変革につながり、これによって不当に女性を低く見るような社会制度を是正していくことにつながる。また、晴れの場に女性が参画することによって、女児に対するロールモデルの役割が期待でき、女児が不必要に自己を抑圧することなく才能を十全に活かして社会に貢献できる人間に育つ可能性を高める。しかし、これらの効果は非常に薄い。特殊な場の1つくらいを、女人禁制を破ったとしても全体の価値観への影響は少ない。もっと女性が進出すべき場は他にいくらでもある。あるいは、男性が進出すべき場も。ロールモデルとしても、わざわざこういう場を用いなくとも大阪府知事であることで十分である。加えて言うなら、逆知事が土俵に上がらなかったとして、今時そこから「女性=不浄」の観念を一般の社会に拡大して学習したり、そこに深刻な抑圧のモデルを見出して自己抑制してしまう児童はほとんどいないだろう。

一方、土俵に上がることで「ただ今あるようにしてある」という状態は完全に破壊されてしまう。日本の伝統と文化を築いてきた1つの宗教の、その聖性の感覚を破壊することにつながる(多くの宗教にとって、境界線と聖性という感覚は重要なものだ)。

結局、土俵に上がることで僅かながら利益がある。しかし利益は僅かに過ぎない。一方、大きな損失がある。上がらなかったとして、損害は殆ど無い。従って、上がるべきでない。

どちらが正しいかとか、例によって例のごとくのフェミニズムと反フェミニズムの争いとか、そういったものではなくこういう議論を是非して欲しかった。まぁ、私が読んでいた新聞の程度の問題だったのかも知れないけれど。