断絶への航海

断絶への航海 (ハヤカワ文庫SF)

断絶への航海 (ハヤカワ文庫SF)

J・P・ホーガンの『断絶への航海』を読んだ。解説には「読者はケイロンの社会が成立するのかどうかを疑問に思うであろう」とあるけれど、でも、この作中のケイロン社会って要するにハッカーコミュニティだよねぇ。

指導者は場に応じて自ずと決まる。皆が資質と誇りを持った専門家であるが故に為されることは正確。声高に我に従えと命ずる人物が現れても誰も耳を貸さずさりとて害がなければつまみだされるでもなく放置される。全てがあるがままに提供され、誰もがそれを得ることができる。人が社会的関係を結び認められようとする欲望に支えられている。成果物を人に与えることで自分の富は減らず、むしろ増大するために誰もが競って与えようとする。

現実世界では、ソフトウェアの特質に頼って成立している文化が、ケイロンでは核融合反物質生産による無尽蔵の資源とロボットによる安価な無限の生産力によって社会全体に於いて成立している、と言う風に見える。

全てが手に入るために普通の意味での富が意味をなさない社会についてはSFでは他にも結構考察されていると思う。例えば、大原まり子の『 戦争を演じた神々たち 』のクデラ社会はそうだ。しかし、クデラ人は望めば容易になしえるにもかかわらずブラックホールに閉じこもったままであるという点で、精力的に開発を進めるケイロンとは対照的である。それは多分、ネットによって自己と世界の区別が曖昧であり、ネットの外部に活動を求めなくとも全てが可能であり、自己の内部で自己充足が可能であるから、なのだろう。共通しているのは、物質的に満たされたときに人間に残るのは他の人間とつながり認められようとする欲望であり、人々が煽動者の与える安易な肯定にすがらない限りに於いては、その欲望は良きもの美しいものの創造に向かう他に解消の方法がないということだ。

フリーソフトウェア共産主義的であると考える人たちに読ませてみたい。勿論、現時点では生産手段としてのソフトウェア=富の市場価値がゼロになっているわけではないから、共産主義思想に基づいてフリーソフトウェア運動に参加している人もいるだろうけれど。でも、多分大多数の人の場合は富の意味が違うだけなのだ。