悪法の啓蒙は悪であるか

著作権侵害 - フジログ 」を読んだ。

「違法だが小さい」と「違法じゃないよ」にはユーザの意識として大きな違いがある

というのは総論としてもちろん賛成で、法治国家にあってこれに真向から反対する人っていうのは少ないだろう。ただ、事が著作権に関する話題だけにもうひとつ注意してほしいことがある。

もうひとつの違い

「違法だが小さい」と「違法じゃないよ」の他に、もうひとつ考えてほしい。

  • 「合法だが法の趣旨に反する」と「正当なる天賦の権利」には権利者の意識として大きな違いがある。

藤花さんの指摘する「「またカスラックか」的な反応」の土壌になっているのは、本来はそこで法の趣旨に則った運用を心がけるべき著作権管理団体があまりにも瑣末な事例を取り上げて利用料をせびりに行ったり、小規模な利用を申請しても高すぎる利用料をふっかけたり、そうしてため込んだお金の権利者への配分が不透明だったり、ということである。そうして、著作権が本来守るべき創造を奨励し、著作物の利用を広め、既存の著作物を元にさらなる文化の発展を狙うという価値が損なわれているというユーザーの意識である。

そしてまた、その趣旨を忘れて著作物を永遠に利用不可能にしかねない方向に著作権法が改正されようとしていて、何とも先行きの暗いものを感じる。

著作権は何でないか

今まで何度か指摘しているけれども、Wikipedia日本語版のガイドブックにおける 著作権の説明 は最低だ。

著作権とは一言で言ってしまえば、「自分で作った創作物は自分だけが好きなようにできる権利」です。例えばあなたが小学生だとして、遠足に行ったときの感想文を書いたとしましょう。次の日の授業でクラスの誰かが作品を読まされたとき、なんとそれはあなたの作品の丸写しだったらどうでしょう!? 「それはボクの文章だ!勝手に自分のモノにするな!」と怒りを感じることでしょう。このときあなたは著作権を侵害されたことになります。

著作権はそういう器量の狭い怒りを正当化するための権利じゃない。著作権法は企業法同様、国家あるいは社会ひいては人類の富を増大せしめるために目的をもって制度的に運用されるべきものである。著作権が人が生まれながらにして持っている権利であるかどうか、私は懐疑的だ。

Wikipediaガイドブックのその文を書いた人がいい人なのは知ってるし、私もガイドブックの立ち上げに関わった人間だから一定の責任はあるわけだけれども。ただ、Wikipediaのプロジェクト存続のために著作権問題の回避は大きな問題だし、どうにも著作権をわかりやすく説明するための代替案を思いつかないので恥ずかしながら放置している。だれか、他の説明文を思いつく人はどうか書き換えてほしい。

守るべきもの、論じるべきもの

copyrightが、ベルヌ条約が、本来守ろうとしていたのは何であるのか。日本が情報の製作・発信およびそれにまつわるインフラやコミュニティの創造を通じて発展するためには何が必要なのか。

そのことを考えれば、いささか脊髄反射的な誤読が含まれているにはしても「カスラックか」的な反応にも一定の理はある。そして、理があるとはいえ「カスラックか」は割とどうでも良くて、反論するなら「 副作用が大きすぎるストレージ・サービス違法判決 」あたりだろうに。