カルネアデスの板

先の記事 に続く。

社会はカルネアデスの板だ。

社会は個々の人の幸せなり尊厳なり、生活なり自由なりを守るためにある。それをできるだけ平等に実現したい。

でも、その守るべき人間は多様だ。自然は連続で多様だ。人間の思考も社会の構造も、その多様性には耐えられない。 ものを分類し因果関係を追う思考と論理、あるいは差別なく社会を運用するための基準と体系は、連続的な多様性に線を引くことを免れない。 基準を引けば、例外を生じる。本当は自然の生む存在は等しく存在であったのに、その存在に対して人間が分類や価値判断を下したとき、典型と例外の二項対立が立ち現れる。

基準の線引きをもっと厳格にもっと高次の近似にしていくことは可能だ。そうして、典型域をより押し広げ、例外として不便を被る人を減らすことができる。 しかし、そこにはコストが掛かる。1万年に1人生まれる稀な特質の人が何一つ不当な不都合を被ることがないように配慮するには相応のコストが掛かる。全てのケースを配慮するには限りないコストが掛かる。そして、そのコストに社会は耐えられない。共倒れである。

だから、線を引く。悪いけれども、不都合を被ってもらう。

カルネアデスの命題は極限状態を提示し、こうした構造を明らかにする。けれども同じ構造は海難事故でなくても発生し続けている。海難事故でもない限り、生存そのものを諦めてもらうほどの酷い状況はそうはない。社会はその程度にはコストを支払えるようになってきた。喜ばしいことだ。でも、もっと小さな状況ではカルネアデスの命題が発生し続けている。

板が本当に1人しか支えられないなら、相手をたたき落とすのは正しいことだ。一応そう言うことになっている。生き残った人は別にそれを恥じる必要もない。 でも、工夫を凝らして2人が乗れるならばそのほうが良い。そして、本当にどうしようもなかったとしても、板からたたき落とされ海に沈んでいった相手に掛ける言葉は、少なくとも「かわいそう」ではない。