ライトノベルと呼ばれるものの変遷

このライトノベルがすごい! というサイトの中の 久美沙織 の連載、 創世記 を読んでいて合点がいった。「何故、最近のライトノベルは面白くないのか」

まぁ、私がもうそんな歳じゃないっていうのも面白く感ぜられない一因ではあるんでしょう。というか、この連載を読むまではそれが原因のすべてだと思っていた。でも、ライトノベルの側にも変質が、やっぱりあるんだなーと。いや、私が好きなのはジュニア小説の名残を留めた少女小説の時代なのであって、ライトノベルというものそのものが私にとっては何か違うんだな〜と。

今のように流行始める前の マリみて に感じたのは、そんな懐かしい空気だったように思う。ある日、地元の古い書店で面白い本を探してさまよう内に狭いコバルトの棚に辿り着いた。偶々一冊だけ置いてあったあの本を見つけて、丁度マリア崇敬の歴史について勉強中だったこともあって、何気なく手に取った。それで、夢中になったんだった。友人にも勧めて「ごっこ」をして遊び、未だにオンラインでは 志乃さん のこと「志乃お姉さま」って呼んでる始末で……。

行き過ぎたメディアミックスというか、例えば 大塚英志 的なもの。彼が自ら分析して( 物語消費論 は良かった)、多少の謙遜を含めつつも実践する「読み捨てられる物語」。私にとって小説は、そういうものであっちゃいけないのだ。コミックは好きだし、大塚英志作品だって好きだ。そして私はまさにそれを「消費する」。『 サイコ 』は不気味なほど『物語消費論』の実践であって、私は彼が描いている通りの消費者に違いない。でも、私にとって小説は違う。小説はやっぱり窮極的にはブンガクであって物語消費の対象ではない。だから、消費されるために生産される小説を読んでも求めているものとは違って満足感が得られないのだ。

私の世代よりもほんの少しだけ早く、頭上を通り過ぎていった、少しだけ背伸びをして手を伸ばして断片を掠め取ることができたあの少女小説の黄金期を懐かしく思い出す。「このライトノベルがすごい!」の中で 早見裕司が分析している 「自立心と反抗心」あるいはそれに類するもの。久美沙織も引用しているけれど、吉屋信子の「まことより嘘が愉しや春灯」とまで言い切る、青臭くとも一定の志向を持った思想性。それが欲しい。そうだよねぇ。吉屋信子なんかはそれがenLIGHTenmentであるという意味でライトノベルではあったかも知れないけれど、でも、軽く読み捨てられる小説ではないんだよねぇ。

私は吉屋信子に続くものを読みたい。 森奈津子 はそれを目指すと公言してるし、あの人の作品がなかったら今の私はないという大先生ではあるけれど、何かとギャグに走りがちだしねぇ。

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

花物語〈上〉

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