ぐだぐだ言わずにDo it!

ウィキペディア関連掲示板書いた文章だけれど、こっちにも保存しとこう。

私が会社のほうとかrailsとかにかまけてやりかけで中断してしまった仕事を、いい感じに私のやりかたを無視して改善してくれた勇者がいたので、それで感激して書いてしまった文章。もうちょっと一般化すると結局オープンソースな世界の哲学あたりに繋がっていくのかもね。

Wikipediaの価値は、その絶えざる改善という一点に尽きる。WikiWikiであるということに尽きる。間違いがあれば修正されるであろうという可能性に尽きる。そうでなければ、査読も導入されていないオンライン百科事典に誰が見向きしただろうか。査読が無くても秀逸な記事たちが生まれて来たのは、通りすがりのIPユーザーさえもが間違いを修正し得、有用な情報を書き足し得たからである。少数の超人たちの貢献を無視することはできない。しかし、専門家には至らない、凡人の域を出ない人々の貢献こそ、Wikipediaを支えてきたのである。言語や分野によっては実質的な優しい独裁者も居たかもしれないけれど、いずれにせよWikipediaは伽藍ではなくバザールなのである。

だから、Wikipediaでは誰であれ、何であれ、プロジェクトの趣旨に賛同し建設的な意図を持って"行動する"人間が偉いのである。皮肉にも、Wikipediaにおいては、的確な批判を与えることはある意味でもっとも非建設的な行為である。調査と批判に費した労力で、記事を書き換えるべきなのである。ナンセンスな批判のほうがまだましかもしれない。ナンセンスなら、単にそれを無視すればいいのだから。

間違っていそうな方針に対して助言するのは間違っていない。自分の考えに自信がないなら、質問の形で貢献することもできる。でも、今のやりかたよりも正しいと"確信"している道があるならば、すぐさまそれを実行すべきなのである。的確な批判なんてものを書き連ねている場合じゃない。たぶん記事の内容への批判を書くのが建設的な意味を持つのは、編集合戦が予想されるときにノートでの批判を以ってそれを避ける場合だけだろう。

正しい方法は一つじゃない。完成に向かう道は一つじゃない。どんな流れで書いていくか。何に重きを置くか。記事を分割するか、統合するか。選択肢はいくつもある。誰かがやりかけの仕事であっても、協調することを忘れなければ、いつでも恐れずに自分の道をたどっていい。

特に、誰かがやりかけで中断してしまった仕事なら、可能なときはいつでもそれを奪って続きをやるべきだ。そのとき、前任者の道に従わなくていい。自分がよりプロジェクトに貢献しやすい形へと、大胆に方針変更するべきだ。とにかく前任者よりも高い所へたどり着けるなら、道なんか無視していいのである。

建設的な意図を持って行動する人間だけが偉いのである。だから、もはや昔関わった記事のメンテナンスぐらいしかしていない私は偉くないのである。偉くない人間が、何を偉そうに語っているんだろうね。