ありがちな不幸

物語を作る際に、使い古された不幸のエピソードを用いても全然リアリティがないという批判をときに目にする。借金で一族離散とか、継母に虐待されるとか、そんな聞き飽きた不幸を並べ立てられても全然リアルじゃない、と。でもこれって本当にリアルじゃないんだろうか。ありがちで、世間にいくらでも転がっているからこそ、使い古されているんじゃないだろうか。それとも、私の身の回りが偏り過ぎているんだろうか。

私の身の回りが些か偏っているのは否定しない。類は友を呼ぶという通りに、所謂「メンヘル女」のメンタリティとそれ相応の経歴を持った知人が多いのは確か。けれども、一般に「使い古されたありふれた不幸」の1つぐらい誰しも背負っているものじゃないだろうか?

逆に、「二親ともそろっていて仲が良くて、少なくとも片親には定職があって、親の借金の取り立てに怖い人が押し掛けてくるような環境じゃなく、さりとて親族の遺産分け争いもなくて、身体的虐待も精神的虐待も性的虐待も受けたことがなくて、命や自己存続に関わる病気も持っていなくて四肢は不自由なく、性犯罪被害にも遭ったことがなくて、恋人が殺されたこともないし、恋人からDVも受けてない人」なんてものが本当に実在するんだろうか。こうして書き上げてみると実在したとしても極めて特殊な事例としか思えないけれど。

並べてみると本当に、どれか1つぐらいは誰でも当てはまる極々普通の条件だよなーと思う。リアルじゃないっていうのは、こういう普通のことをさも特別なエピソードであるかのように扱っていることを指すんだろうか。ちょっとニュアンスが違う気がする。じゃあ、その「リアルな、普通の人」っていうのはどこにいるんだろう。それは普通の人の普通の生活の平均としてのみ浮かび上がる虚像であって、個数の平均をとっても自然数になるとは限らなくてむしろ大抵は小数部を持つのと同じで、その「普通の人」そのものは実在はしないんじゃないかと、ふと思った。