テクノロジーの世界の女性のロールモデルについて考えてみた

最近、「テクノロジー(あるいはオープンソース)の世界で目立つ女性というのは珍しい」 というようなことを言われることが何件か重なった。「 Rubyがそろそろ一回終わってみるべき10の理由 」とか、その他何件かね。 その重なりは私に、何か色々なことを考えさせた。考えたことについて何とはなしに書き下してみようと思う。

前提と社会

何とは言ってもオープンソースの世界で活躍しようと思ったら、それが好きでなければならない。そりゃあ、今時はオープンソースを積極的に貢献し、それを利用しようとする企業も少なくない。しかし、開発コミュニティには沢山の、開発が好きで好きで仕方が無くてそれに時間を努力を惜しまない人々がいる。その中でなにがしかをなしとげようと思ったら、やっぱり「業務命令だから」じゃなく「好きだから」でなければやっていくのは難しいだろう。

で、ソフトウェア開発が好きで好きで仕方がない女性ってのはどれだけ居るんだろうね。ソフトウェア開発はとても人間的な活動で、いろいろな人と関わって、いろいろな人の考えに思いを巡らせる社会的な活動だ。でも、その入り口はとても無骨な技術の姿をしている。テクノロジー、コンピュータ。所謂"理系"の世界ってものだ。そもそも、"理系"とされる分野に進む女性が少ないしね。

何故、"理系"に女性が少ないのかは様々な要因が考えられて、それは既に多く語られていると同時にそれが完全な回答ってわけでもなさそうだ。ざっと思いつく限りでも、まずひょっとしたら生物学的要因に基づく向き不向きがあるのかも知れない。そういうのは女の子らしくないって考えられていて、進路のあちこちに無意識の抑圧があるのかも知れない。

で、こうして生まれた全体的な傾向はポジティブフィードバックする。つまり、ここにカーネルハッカーになる素質をもった女の子が居たとしよう。カーネルいじって喜んでいてもそれが同性の友達に通じる可能性は少ないし、通じる話題を持たなければつまはじきにされるし、あること無いこと噂を立てられる。幸運にして話の通じる「男の子」の友達が見つかったとしても、それは確かに友達が見つかったという点では良いことだけれども、しかし、女の子のネットワークの間では悪評の要因になったりする。だからカーネルをいじる時間はあったとしても少なくなる。だから、彼女はカーネルハッカーとして成長する上でハンディキャップを持つ。そこまで育たないかも知れない。もっと他のことを面白いと感じるようになって、例えば服飾の道にでも進むかも知れない。

また、野望や目標は状況により作られるものだ。たいていの人にとって。誰も思いつきもしないことを欲望することができるのは、新しい時代を切り開く天才だけだ。普通の人は、精々誰かが似たようなことをやっているのを見て、自分もそうしたいと思う程度のことしかできない。だから、テクノロジーの世界で女性が活躍するのをあまり知らずに育った女の子は、自分がテクノロジーの世界で活躍するという可能性自体が頭の中にない。そして、その可能性を欲望しない。それを面白そうな、素敵な将来だと思ったりしない。

ロールモデル

この状況を断ち切るにはどうしたら良いだろう。テクノロジーの世界で活躍する女性の姿が目立てば目立つほど、将来の世代が自分の1つの可能性を知る機会が増える。ロールモデルというものだ。沢山のロールモデルが提供されれば、いずれは「女の子らしくない」とかいうよく分からない幻想も崩壊する。無意識に共有されるそうした幻想はなかったことになる。

だから、誰かが「テクノロジーの世界で目立っている女性」になるのは良いことだ。

実は、そんなことを考えて先日 楽天テクノロジーアワード という賞を頂戴した。誰かが目立たなければならないなら、その1人として私は目立とうと思う。そういうわけで、賞は有り難く頂戴したし、私はできるだけインタビューやら講演やらを断らないようにしてる。まー、本当は、女性に対してという以上に トランスセクシュアルに対してのロールモデル を提供するためというのが一番の目的ではあるんだけど。

立場

さて、ここで考えてしまう。私はオープンソースの世界で活躍する女性のために何か役に立てたらいいなと思うのも動機の一つとして、目立とうともする。しかし、私は、私が役に立ちたいと思っている女性たちが置かれている困難を必ずしも共有はしていないんだな。

私は、シス・ジェンダーの女の子とも男の子とも決定的に違ったから、いつでも「男女」って分類と制約からはある程度の自由を持っていた。あるいはそれは、「男女」って分類を前提としたシステムから疎外されていたともいうけど、システムから疎外されればシステムの提供する膨大なメリットを失うと同時にシステムが課す制約からは逃れられる。名目上こそそのシステム内に居ることになっていたから、完全に自由ではなかったけど、少なくともそのシステムは私の形には合っていなかったから、留め具が部品に合わないみたいに、そこには部品が自由に動ける(動いてしまう)余地があった。 つまり、私は女の子がテクノロジーを身につける過程で受けるであろう意識的・無意識的な、他者からあるいは自身からの抑圧を、かなりの部分受けないで済んだ。

また、こんなこともあった。性別違和感や、自分を性同一性の指し示すところとは異なる存在であると思い込もうとすることは生活のすべてを灰色にする。普通ならば喜びであるはずの、ファッションやら家族とのやりとりやら、食べること話すこと歌うこと走ること、日常の様々なことが私には苦痛でしかなかったから、私はテクノロジーや理学分野 *1 に逃避した。だから、私はそれほど迷わずにテクノロジーに没頭できた。

ってな訳で、困難を共有していない私がモデルとなることはできるのであろうか、と考えたりした。 答えは出なかったし、「女性のためのロールモデル」は私の一番目の目標ではないし、別に私こそがなるという必要はないし、なれないならなれないで良いんだけれど。

蛇足

時期的に重なったので弾さんの「 好き嫌い以前の問題として - 書評 - 女ぎらい 」における私への言及も気にはなったけど、色々考えた結果、ここで語ったような内容とはあまり関係しなかった。

弾さんが言っているのは、まず生活のすべてにおいて何らかの性に関わる事項が立ち現れる訳ではないということだ。そりゃそうだ。また、弾さんの論に立ち現れるのは精々、性的自己認知や社会的関係性における性別だが、そのコンテキスト・「射影関数」の限りでは私は女性と断言して差し支えない。一方、 適切な射影関数の定義操作 をしなければ、弾さん自身についてさえ「性別は○○である」と短く述べることはできない。多くの人が自己の性別を単純に何かであると言い切ることができるのは、日常で用いられる範囲の射影関数の限りにおいて、概ね同値関係が成立するような性別「男・女」が存在し、その人がそれらの関数の限りにおいてはどちらかに移されるからに過ぎない。関数の選択を一般に広げるならば、私に限らず、誰もがその人でしかない。何人も、何か事前に共有された簡潔なもので指し示されることはできない。

*1:だけではないけど。小説書いたり生徒会やったり部活を率いたり、要するに、生活に密着すること以外の何かに。誰もが当たり前にする日常のことではないほど、私はそれが得意だった