障害を持つ人は何故かわいそうでないか

昔々、「障害を持つひとに対して『かわいそうだ』という扱いをするのは不適切」という主張を聞いたが、納得できなかった。だって、目が見えなかったら不便だろうに。歩けなかったら不便だろうに。それはかわいそうではないのか。 今はそれなりに納得できたように思うので、その理屈を書くことにする。

障害のそれ自体

障害というのは、先天的に一定の確率で生まれてくる自然の産物である。また、人間の社会生活という自然な過程で一定の確率で後天的に負ってしまう。いずれにせよ、人間がそれをどう解釈するかは別として、人間が障害と呼ぶ状態はそこにある。

たとえば人間が「障害」を「もげら」と呼ぶことにしたところで「もげら」は無くならない。「もげら」は神の恩寵であると解釈したとしても「もげら」は無くならない。それは一義には人間による社会制度ではなく、自然の産物なのである。 何を「もげら」と見なすか、どこから「もげら」なのか、「もげら」とは何なのか、人間の価値判断に先んじてそれは常に存在し続ける。

さて、いい加減面倒になってきたので用語を再び「障害」に戻すことにしよう。

社会構築

人は平等であるべきである。社会においても平等であるべきである。 人は、どのような状態にあるとしても、社会的に妥当と認められている行為を行う自由を等しくもっているべきだ。

だが、どうだろうか。足が不自由である人がうちの近所にある階段の急な神社にふらりとお参りする自由は保障されているだろうか。目が見えない人が、その神社の前にある交通量の大きな歩道のない道を安全に通行する自由は保障されているだろうか。されていない。平等は達成されていない。特定の属性をもっている人が、私であれば当たり前に享受できる生活ができないようになっている。これは社会の不全である。

ではどうすべきだろうか。神社の脇の山を買収して削って長いスロープを付けるべきだろうか。でも、その脇には墓地があるんだが。スロープのためには改葬もやむを得ないか。反対はおおいだろうな。それに脇には結構素敵な清水もあって、これも壊さないといけないね。

ごめん、あなたが私たちと平等な快適さを享受するために必要なコストは社会が許容可能な範囲を超える。だから、ちょっと不便かも知れないけど我慢してください、と言いたい。階段を昇るのをみんなで手伝うぐらいは喜んでするけれど、一体何年に一回あるのかもよく分からないそうしたレアケースへの配慮のために山の買収や周囲の環境の破壊はコストが大きすぎる。

結論

答えはこれである。人間は実に多様だ。その多様さにある程度の単純化を施さなければコストは限りなくふくれあがる。だから、マイノリティには悪いけれども、単純化して一般的なユースケースに耐え得る程度に社会や設備を構築する。

役所や旅客設備のような公益性の高い場所であればそこへの平等なアクセスの価値はもっと高いから、その平等を確保するために予算を使うとしてもコストは見合う。でも、マイナーな地元神社への極めて稀なアクセスにそこまでの価値はない。コストばかりが大きすぎる。

ある障害によって不便を被るという構造は、その障害を持っていない私から見れば「悪いけど、予算の都合であなたに不便を掛ける」というものである。これでどうして「かわいそう」だなとど言えようか。 その人が特定の属性をもっているが故に不当に不便を被っているのは理解するけれども、それを根本的に解消するための手だてで失われるもの(=墓地, 清水)を私は優先する。私はそれを失いたくない。

だから「かわいそう」じゃない。申し訳ないけれども、社会が膨大なコストを要するということと、必要であれば階段を昇るのを私が補助できるという事情を勘案して、あなたがマイナーな地元神社にふらりと訪れられるという平等はそこまでの価値があるとは思えない。それは本当は保証されるべきだった平等だけれども、私は私の価値ためにその実現を支持しない。

その人は私にとっての価値を守るために不便を被っている。そこで「かわいそう」とか言うのは、まるで、ヒールで手を踏みつけにしながら「痛いでしょう、かわいそうに」というような奇妙で、殴られても仕方のないような傲慢な態度だ。 代わりに「ごめんなさい」と言うことすら傲慢かも知れない。少なくとも「かわいそう」ではない。