加害者の覚悟、蛇足

以前、「 加害者の覚悟 」という記事を書いた。サーバー障害で機会を逸して、いくつか言葉の足りない点を直さずに置いておいてしまったと思う。サーバー移転した関係上、2カ所に分かれてしまっているけど、はてなブックマークで色々とコメントも頂いている。これに対して答えたいこともある。

善悪の定義

善悪や、罪というものの定義は自明ではない。これは価値判断に属する。どういった基準を採用するかについて思想上の差異がありえて、基準をめぐる対立が存在し得るものだ。

私は、ある人が生まれながらにして悪であるというような基準は極力避けるべきだと思っている。だから、 id:imotan さんのコメントにはある意味で共感する。

「踏みつけにした」って言われてもピンとこないなあ ただ生まれてきて教わったように育っただけなのに加害者だといわれても・・・

つまり、他者への加害は常に悪であるとする限りにおいてはこの種の違和感を招いてしまうという意味で。

  • ある社会的な構造がある人々に恒常的な不利益や不都合をもたらしている。もしくは、そのような構造がかつて存在したために、継承できたはずの遺産を失った人々がいる。
  • 一方その社会構造から直接的に、そして主に社会秩序を通じて間接的に利益を受けている人がいる。またはその遺産を継承している人がいる。
  • 構造を解消したり、原状回復することは難しい

このとき、構造の力を背景として現行で収奪を行っている人を悪と呼ぶのにためらいはない。けれども、社会構造を通じて薄く薄く利益を享受している人や、ましてその遺産継承者については、私は悪と呼びたくない。だから、次のように言うのであれば完全に同感だ。

  • 「ただ生まれてきて教わったように育っただけなのに悪だといわれても・・・」

他者の犠牲の上に生が成り立っているということがある。特に「他者」を人間以外まで拡大すればこれは殆どすべての人に成り立つ。だけれども、それは悪や罪とは限らない。法的な意味で罪でない場合はかなり多くを占めるだろうし、宗教的な意味での罪は個人の信仰に依存するし、もっと曖昧な道徳的な意味でも悪とは限らない。

加害者という語法

私の言うところの加害者もまた、構造の被害者でありえる。

私は彼らを悪と見なさないけれども、彼らの価値観や宗教観においては、彼らが他人の血の上に育ってきたという事実は悪や罪でありえて、だとすれば彼らは自分を責めなければならないのだから。彼らは何もしていないのに。

あるいは、社会構造を改善して問題を解消していくにあたり、彼ら間接的受益の継承者はこれまでの生活を幾分か改める必要に迫られるかもしれない。たとえばそれは、同じ国内には異なる民族もいるのだというこれまでと異なる認識世界の中で生きなければならないことだったり、肌に色がついていて何だか汚い感じがするけどそんなことはないのだと生理的(と思っている)感覚を矯正しなければならないことだったり。これはストレスだ。苦痛だ。

不幸だ。彼らにはケアが必要だ。これのどこが加害者であろうか。私はそこに不都合を強制される「被害者」が存在することを曖昧にしたくないので、その逆を「加害者」と呼んだ。けれども、ひょっとしたら「やや受益者(だった筈のもの)」とでも呼んだらいいのかもしれない。でも、以下では仮に「加害者」で押し通すことにしよう。

不愉快と対策

が、それにしても不愉快だ。それが悪でないにせよ、私の生が他者の犠牲の上に成り立っているという事実が不愉快だ。 id:KQZさん の問題意識って、だいたいそんなところにあるんでないのかな?

俺たち本州に生まれてきたってだけで、世襲的にずーっと加害者呼ばわりされるんだぜ。

少なくとも私は自分の置かれた「加害者」という立場が不愉快だ。不愉快だが事実は事実だ。そして、現実が気に入らないなら違う現実を望めばいい。

たとえば、自然解消を願おう。しかるべき処置をすれば年月は問題を解決する。被害の記憶は薄れる。収奪は経済活動を通じて攪拌されて意味を失っていく。直接的な被害を受けた世代への感情的ケアや、せめてもの補償や、自己存続するだけの力を失った民族アイデンティティへの保護政策や、そうしたものを通じてこれ以上現行で被害が発生することを抑止すればよい。そうしておけば、時間経過と共に問題は解消していくだろう。

でも、その時間が過ぎていく間だけ私の不愉快は続いていく。もっと早く解消したいなら、解消に向けて積極的に活動すれば良い。ただ、それだけのことだ。私は幾つかの問題についてはそうしている。

けれども、社会構造に織り込まれてしまった問題を簡単に解消する方法はない。解消のための運動にはコストが掛かる。やらなければならないことは多い。被害を完全な原状回復する方法がなければ金銭で補償するしかなかったりするし、そうすれば悪用する人が出るし、妬む人もいる。悪用はどこかで別の種類の被害者を生むこともある。妬みは新たな現行の被害を再生産する。放置は、有効な場合もあるかもしれないけれども、民族同化に関して言えば被害者を「根絶」するだけだ。運動を通じて解消しようと思ったら、その細かい個別の問題を個別のケースで1つ1つ解きほぐすしかない。

募金で運動を支援する方法もあるにはあるけれども、これも難しい。世の中には沢山の問題があ、金銭的支援を必要としているそうした運動団体がある。おまけに金銭目的のニセ団体まであるときている。すべてに関わっていたら破産する。

だから、私は最初の記事で「一個人が、特に身近に感じているわけでもない多くの構造的な問題に対して積極的に取り組んでいる時間はない」と言った。こんな面倒なことをあらゆる問題にやってられるわけがない。結局、被害者にとって手っ取り早い逃げ道がないように、「加害者」にとっても手っ取り早い逃げ道はない。これが、社会構造に織り込まれてしまった問題、世代を超えてしまった問題、構造的な問題の悲劇だ。不幸だ。

解決への願望

私は生殖能力がないので、私の子供たちというのはたぶんあり得ない。でも、私にとって大切な人の子孫というのはあり得る。彼らには「ずーっと加害者呼ばわりされる」立場でいて欲しくないから、私は現存する問題が一日も早く解消することを願う。きっと、解消は可能だよ。

そしてまた、新たな問題を可能な限り作るまいと思う。本人にとって避けようのない属性で他者を不利益な立場にするような人を見たら、それを咎めようと思っている。また、自分がそうしないように気をつけたいと思っている。

でも、それでも、私はあんまり身近でない問題のためにそんなに時間を割きたくない。家畜飼料を直接の食料に回せば助かる命があると知っていても肉は美味しいし、食べたい。私の生活リソースをそんなに消費したくない。

なんていう我が儘だよ。でも、これが私だ。そして、これは生活者として正しい欲望だと思っている。だから、私は解決への願望と私が支払うコストを天秤に掛けて、ほどよいところで折り合いを付ける。

  • ある問題には積極的にコミットする。
  • またある問題には、悪いけど消極的でいさせてもらう。

    • 最初の記事に書いたように、自分が拠って立つ社会基盤に抑圧されている人がいることを認識し、機会があれば数分ぐらい時間を費やすに留める。
    • 今回のアイヌの問題なんかはこのパターンだ。たまたま気が向いて一般化した話題にするのでなかったら、いくつか記事を読んで終わりだったろう。
  • そしてまた、ある問題には、恥ずかしながら気づいてすらいないだろう。でも、機会が与えられれば気づきたいと思っている。

……という、被害者のためなんかではない、ものすごく手前勝手な自己満足の話を書いたのが最初の記事であった。また一方で、そんな自己満足でも問題の解決に資する部分はあると思う。