ホルスト Jupiter

平原綾香の「ジュピター」を有線放送で聞いたときにまず思ったのは、「遺族はどう言ってるんだ?」。紅白で聞いて改めて思った。

ホルストといえば、遺言で編曲や演奏方法についてまで注文を付けて、遺族がそれを遵守して口うるさかった、というのが有名だ。「木星」も「火星」も「土星」も小さいころから好きなんだけど、遺言どおりにやるとコストがかかりすぎるのであまり演奏されないと聞いたときはちょっとがっかりしたものだ。「著作権切れたんだろうか」と思って調べたら1994年で日本での著作権は切れていた。

ま、これが著作権の本義だよね。一定期間の独占を認めることで創作を奨励し、その後はパブリックドメインと言う人類の共通資産になる。その土壌が新たな創作を促す、と。

さて。ホルストには死後60年経ってもまだ支持される価値があったわけだが。で、昨今の「消費されるコンテンツ」には同じだけの価値があるのか? 10年も「懐メロ」としてでなく価値があるのか? そもそも「懐メロ」としてすら残り得るのか。その辺を考えると私はその作品を社会が最大限に活かすためにはやはり収益を権利者に還元する方法を模索しつつも、基本的に派生を自由化することが必要と思うわけだ。それが結果的に作品の延命にもつながるだろう。レコード会社なんかにはそういう歩み寄りの気持ちはないみたいね。レコード会社のような自称「権利者」(≠創作者)としても消費者の姿勢は歩み寄りに欠けると見えるみたい。ニコニコ動画で模索されているライセンス形態やなんか、興味深いと思うんだけどな。

まあ、根本的な立場の違いだからしかたがない。「著作権の本来の意義からしてこうあるべきだ」という主張と「現行著作権法制の下で得てきた利益を逃さないためにはこうあってほしい」という主張なんだもの。

そろそろ、著作権は終わったほうがいいよ。派生は自由に。実演は自由に。利益は、権利者の存命中は還元を。権利者の死後はパブリックドメイン。絶版本も、権利者に利益還元だけすれば好きに再発行できるように。情報を止めず派生を止めないことが何よりも大切だ。芸術じゃない、情報だ。

それでいいじゃないかと私は思っている。全部ぶち壊した上で現代のソフトウェア技術の力で権利関係をトレースする仕組みを打ち立てればいいじゃない。