創造を止めるとき

何かを生み出さずにいられるということを理解できない。私は大抵のアカデミックなものには興味があるのでもっと勉強したいけど、そのすべてに手を出していたら時分割のスイッチングコストだけで終わってしまう。だから、面白そうなものの大部分を諦めている。永遠に時間があったらよいのに。

永遠に時間があったら結局何もしないだろう、といって限りある時間を賞賛する声がある。しかし、私はその声を信頼しない。限りがあるから頑張るという心理は締め切りに追われている身として痛感するけれども、それだけが人間を駆り立てるのではない。内発的な創らずにはいられないという気持ちがどうしようもなく高まるときもある。永遠に時間があるならば創造への欲求が散発的であることはそれほど問題ではない。そもそも永遠に時間があるのだ、創造への欲求を高める方法を探す時間は十分にある。

同様に生活上の必要に駆られなければ人々は怠惰になるだろうという意見がある。現実の事例を見るにそうなのかもしれないけれども、私には理解しがたい。どうして生み出さずに生きていけるんだろう。 孫引きで恐縮だけれども、 pal-9999さんの記事マイク・タイソンのこんなコメントの引用があった。

「福祉ってのは最悪だな。クラックより酷い中毒になっちまう。頼っちまうんだ。ただで何かを貰うのがどれだけ楽か、分かるか?何もせずにただベッドに寝て、色んな男とヤりまくって、子供をゴロゴロ作ってればそれだけで福祉の金が入ってくるんだ。そんなことをしてれば、すぐにモラルも倫理も仕事に対する価値観もなくしちまう。福祉ってのはそういうもんだよ。」

な、なんだってー。私もしばらくの間ネット見て買い物して本読んで寝てっていう生活してたけど、その果てに湧き上がってくるのは何でも良いから創りたいっていう欲望と、より多く深く知り考えたいという欲望だったよ。

根本的に、より多くを知りより多くを生み出せばより多くの楽しみ喜びを得ることができる。この喜びを手放せるほど私は禁欲的でない。ただ欲望のままに「汝の欲するところを為せ」とファラリス神も言ってる。

一体全体、どうして価値を創造せずに生きられるんだ? と、答えは同じpal-9999さんの記事に引用されているんだけどね。サルトルとヴォーボワールの事例だ。愛情だ。愛に満たされていれば何も産み出さなくても満足できる。依存して近代的個人としての何もかもを擲てば、その安逸の前には他の何も意味を持たない。これは理解できる。あー。創造せずに生きていけるひとが けまらしい

そう言うわけで、 メリークリスマス