疑念こそを歓びたい。

私たち性同一性障害者を含むあらゆる異端者は、世の常識の枠組みの外にあるからこそ異端者であると言える。常識に対する反例であったり、常識の自己矛盾が露呈する特異点であったりする。

つまるところ、異端者に対する議論とは常識に対する問題提起なのであり、異端者を論ずる際に常識を前提に置くことは愚かなことである。それは同語反復しかもたらさないのだから。

しかし、人間なかなか簡単に自己の中に内面化された枠組みから解放されて思考できるものではない。頭で幾ら分かっていても、どうしてもそれに囚われがちである。例えば私は、ジェンダー論なんぞをやっている関係上「外科医=男性」というバイアスが世の中にあり、また私の中にもあることを良く良く知っている。それにもかかわらず、個人的な知り合いに女性外科医がいないこともあって、どうしてもこの観念から自由になることができない。落ち着いてものを考える際には勿論、女性の外科医が存在する可能性を十分に考慮するけれども、何の脈絡もなく突然「外科医!」と言われた瞬間にイメージするのはメスを持った男性の姿である。

だから、たとえ性同一性障害についてある程度知識がある人であったり、私がカムアウトした知人であったり、そういう人であっても、必ずしも既存のジェンダー規範、性同一性障害に関する偏見から自由に思考できるとは限らないと思う。むしろ、ときにそれに囚われることこそが自然ではないだろうか。そして、そのために私の性的アイデンティティセクシュアリティのあり方に疑念を抱くこともまた、自然であると思う。

当然の事ながら、私はその疑念に対して正当な釈明をすることができる。しかし、それは彼らが私にその疑念を伝えてくれたときに限られる。

私が最も恐れているのは、親しい人がその疑念を抱きつつも私に伝えることなく心中にしまってしまうことである。私にとって全く不当なその疑念は解消されることなく、或いはいつしかふくれあがって何か問題を引き起こすかも知れない。

疑念をこそ歓びたいと思う。疑念を私に直接述べてくれたその人を、私は生涯信じたいと思う。