性同一性障害者が性別越境に対する敗北者であるということ

性同一性障害者を挑戦者として捉える考え方がある。性別境界あるいは男女の隔たりを越境しようとする果敢な(あるいは不届きな)挑戦者であると。外形的な振る舞いの側面に着目すればそれは正しい。性別再適合手術に代表される医療的処置に関して言うならば、性同一性障害当事者よりはむしろ医療関係者こそが挑戦者であろう。

そしてまた別の意味では、挑戦者として捉えることは決定的に間違っている。性同一性障害者は男女の隔たりに対する敗北者である。

中核群の性同一性障害者の生活史を改めて考えてみよう。彼らは物心つくころには既に性別に違和感を感じている。その違和感を周囲に訴えるが、抑圧されるか、少なくとも深刻には取り扱われない。彼らは、自己の内面にあるその部分を表出することは社会適応に差し障ると学習する。そして、自己を矯正しようとする。身体的性別に合わせて典型的な振る舞い、立場、思考を身につけようと何度も試みる。そして、「このような"実験"をよく行うが、必ず失敗に終わる」(『 性同一性障害の基礎と臨床 』p.100)。

性同一性障害者に対する批判の1つの典型として、「自己を社会に適合させることを怠って社会に配慮を求めるのは傲慢でないか」というものがある。いや、実際には怠っていなくて、挑戦して失敗しているのだけれともね。このような批判が出てくる背景には、身体的な性別に合わせた振る舞い、立場、思考を身につけるのは逆よりも本質的に容易であるという発想があるのではないかと思われる。そして、批判者たちが拠っているその発想を、恐らくは性同一性障害者自身も共有している。故にこそ、無益な「適応実験」を行って自他を傷つけるのである。

私の話をしよう。私もこの「実験」を何度も試みた。私はことあるごとに自己の"男性性"を強調しようとしたし、そうであると自分に言い聞かせた。その実験の過程で揺れる私の言動は奇矯であったろう。それに、これは社会的関係性に関する実験であって、自己に閉じているものではない。それに巻き込んで迷惑を掛けた人も随分いた。けれども、男女の文化的な違いのあまりの大きさに、結局私が「男性側に向かって越境する」ことは不可能であった。

そして、そうしたあがきの一方で私は性差廃絶主義者であった。身体的差異を除いて男女に何らの違いはなく、あるべきでなく、身体的差異が本質的な意味を持つような特殊な局面以外においては社会において男女に区別があるべきでないと考えていた。これは自己の男性性を強調する振る舞いとは矛盾するものであるが、気づいていなかった。要するに私は、自分が性同一性障害者であるということから目をそらしたまま社会適応できれば何でも良かったのであり、そのためには自分が男性的であるのでも、社会において性差が根絶されるのでもどちらでも良かった。ま、こちらの試みも成功するわけもなかったのだが。

ともあれ、身体的性別に適合するようなパターンを身につけるためにそういう有害無益ではた迷惑な「実験」を試み、そして、男女の文化的/精神的な隔たりの大きさに遮られて失敗する。そうして失敗した敗北者が性同一性障害者なのである。性差本質主義的な、「社会における性差は自然の産物であり、ジェンダーフリーとかいうのはまやかしだ」という性規範に保守的な人が性同一性障害者を持ち上げるのはこの敗北者としての側面を見てのことだろう。実際私は性同一性障害という問題を否定するために性差廃絶主義に走っていたのであるから、逆を考えれば彼らの戦略は間違っていない。

まぁ、そういうわけで、性同一性障害者を挑戦者として捉えるのも一理あるけれども、敗北者と捉えることも忘れて欲しくない。敗北者としての側面は政治的立場に応じて「男女の本質的な差異の大きさを証しする者」とも「構築された差異に拘泥し、抑圧構造の強化に荷担する者」とも解釈されるであろうけれども、ともあれ、その側面があることだけはきちんと考えて欲しい。