プログラミングの終焉

気分が落ち込んでるところに、同僚から(たぶん悪気はなく)「プログラマもいつかは無くなる職業だよね」と追い討ちを掛けられた訳だが。

それはきっと起きると信じている。少なくとも人間と同等のAIが妥当なコストで手に入るようになったときには。それまでは起きないだろう。というのは、人間の知的活動の中でソフトウェア開発が特に容易であるとは思わないから。人間が要求する水準でソフトウェア開発を為せるだけのAIは、他の知的活動もまた人間と同等以上にできるだろう。

それよりも前に、非知性システムによってある種のプログラム作成行為は自動化されるかもしれないけれども、それはソフトウェア開発を滅ぼさないだろう。人間の欲には限りがないから、システムがより安価に手に入るようになれば人間の知性を動員してさらに複雑で高度なシステムを構築しようとするに決まっている。キーボードによる入力や、アセンブラや、コンパイラコンパイラの登場のときにそうであったように。

ともあれ、人間以上のAIがソフトウェアを開発するようになったとしても、私はやはりプログラミングをやめないだろうけれども。これは文化(=芸術)だから。私は馴染んだ処理系をそのAIにエミュレートさせるだけだ。まつもとさんもそんなことを言ってた気がする。

とはいえ、AIがそんなに都合の良いものではない可能性もある。

  • 知性と誤謬が不可分である可能性

    • 知性と忘却、知性と誤謬を結びつける考えがある。ここで問題にしているAIは人間と同様に忘れ、誤るものであるかもしれない。
  • 知性と人格が不可分である可能性

    • だとすれば、そのような知性を隷従させることは倫理的に問題であるのみならず、人格を持った人間以上の知性と利害対立を持つのは得策ではないだろう。
  • コミュニケート不能である可能性

    • チョムスキーが言うように、人間に普遍文法のワイアード実装があったとしよう。AIにおける相当物が人間におけるものと互換であるとは限らないだろう。互換であるようなAIを作るのが容易とは限らないだろう。作り出した知性は人間とは本質的に異質かもしれない。

こういった可能性に引っかからずに人間に都合の良いAIが手に入ったとするなら、起きるのはまさにシンギュラリティだやな。知能リソースが希少性を持たない社会において、産業はどうなることやら。

とはいえ、実際のところ、明日なのか1000年後なのか分からない「都合の良い人間級AIの誕生」=「職業プログラマの消滅」をあまり気にはかけていなかったりする。思考実験としては面白いんだけど。