苦痛による避けられない意識化

恋愛からの自由—「恋愛普遍主義」批判 」を読んだ。コメント欄が興味深い。

# p_shirokuma 『恋愛からの自由に歓びを感じるべきなのだ、という人がこうやって滔々と恋愛に言及なさるんですね。なるほど。』 (2007/01/21 12:48)

# Imamu 『そうやって無理やり「オマエも本当は恋愛したいんだろぉ」という「物語」に回収しようとすること自体が恋愛普遍主義に犯された人の意見なんじゃないかと』 (2007/01/21 13:20)

ありがちと言えばありがちな反応である。前提Aを押しつけられることが苦痛だ、と言っている人に対してそんな前提を気にしているのはお前だけだと言う。属性Bによって抑圧されることは不当だと言っている人に対して、誰もそんなことは気にしていない、気にしすぎだ、という。

でも、誰も気にしないような些細なことであっても、それによって苦痛を与えられ続けていればどうしても敏感になってしまう。それは「些細なこと」は本当は些細ではなく、単に自分はそこからは苦痛を与えられなかっただけということかもしれない。

そのことを実感できない人は、とりあえず誰か親しい人に頼んで風が背中をなでただけで悲鳴をあげる程に激しく鞭打ってもらった後で、「風が吹いただけで痛いわけないでしょ? そんなに痛がるのか好きなの? この豚め」と言ってもらうと良いかと思う。

23:38 蛇足

ジェンダー・センシティブが「ジェンダー・チェック」などを通じて意図しているのは本来はそうした、被害を受けないと実感されない枠組の存在、見えざる所与の条件の差異を認識する素養を身に着けるためであったと認識している。最初に挙げたumetenさんの記事で言えば「『誰もがみんな同じ条件を等しく持っている』と考える人はいない」ということを認識するために、まず「私達が恋愛普遍主義の中で思考していることは知りましょう」ということな筈。

という筈なのであって、チェック項目はなかなか普段は認識でないが確固として存在する差異を指摘するに留まり、「これは差別だからやめなさい。ムキー」ってなものではない筈。だけれども、なんか、ジェンダーフリーに対するバックラッシャーはしばしば誤解しているよね。誤解じゃなく、実際にそういう歪んだ実践をしている活動家もいそうで恐いけれども。

それはさておき、この世はそんな風に、天使とか悪魔とか妖精とか未来人とか宇宙人とか超能力者を持ち出さなくても十分すぎるほど、「見える人にしか見えない異なる世界の重ね合わせ」として存在している。恋愛普遍主義の枠組の中からはumetenさんの指摘する「誰もがみんな同じように ... 馬鹿げた考え」が世界の自然な特性と見えるように。一方、そこから苦痛を与えられた者にとってはそれが馬鹿げて見えるように。

そういう異なる世界の重ね合わせっていうものを森奈津子の『 シロツメクサ、アカツメクサ 』所収「翼人たち」はうまく描いていたなぁ。