性同一性障害は病気か

志乃お姉さまの日記の3月28日にある、性同一性障害は病気なんかじゃない、という記述を数日間考えてみた。実はこれについては以前もお姉さまと飲み会のときに話したことがあって、そのときはそれなりに彼女の説に納得した覚えがあるのだけれど、今考えるとやはり少し疑問が残る(たぶんお姉さまの考えを十分に理解し切れてもいないと思う)。

これは性同一性障害当事者の間でも長らく問題になっている点でもある。確かに正常/異常の区別なんて多分に恣意的なものである。それに私たちは性自認のあり方と身体との間に食い違いが存在するだけで、性自認を含めた精神そのものと身体そのものとを別個に考えれば、そのそれぞれは人間の精神/身体として全くの正常である。

しかし、私は思う。私たちは(恐らくは)先天的な生物学上のエラーを抱え、そのためにQOL(Quality Of Life)が著しく損なわれ、そして医療的ケアを必要としている。医療的ケアを必要とするそれは病気ではないのだろうか。医療的ケアがなければ困るような不均衡な状態を病気と呼称することに何か問題があるだろうか。

「病気と言われたくない」という当事者の意見の中には「差別を助長する」というものもある。事実、過去には同性愛者に対する同情を集めようとして同性愛を病気と定義した結果、かえって差別を煽ってしまったという前世紀の苦い教訓がある。

しかしながら、これを論拠とするのは適当でないように思う。私自身両性愛者であり、また身近にも同性愛者は少なくないが、同性愛傾向を持つ人間にとって同性愛傾向の問題は「ほっといてんか」というのが正直なところであるように思う。これに対して性同一性障害はそうではない。私たちは放っておかれては困るのである。

例えば、世の人々が性同一性障害に関する偏見を改めたとして、「あなた達のことは一個の人間として認めるから、それでいいよね。社会はこれ以上何もしなくていいよね。問題は解決だよね」と言われるくらいなら、現状の差別に満ちた社会の方が幾らかましである。

性同一性障害は社会との関係性の中の問題ではあるけれど、それ以前に、そしてそれ以上に自己同一性と尊厳の問題である。如何に社会の認知と受容が進んだとしても、精神療法・ホルモン投与他・SRSといった治療は必要とされる。周辺的な問題の解決によって中核が隠されてしまうとすればそれは恐ろしい。この構造は「『めくら』という言葉を抹殺したから視覚障碍者に対する差別は解消した」という主張に似ている気がする。