電車内メイク

営団地下鉄の構内に「パタパタメイクにホトホトメイワク」なる、またしてもオヤジギャク炸裂な広告が掲示されている。要するに昨今よくいわれるように「車内のお化粧はやめましょう」ということらしい。プライベートを公に垂れ流すのはやめましょう、と。

この意見自体には賛成だ。プライベートを公に垂れ流すのは良くないことだし、少なくとも私だったら恥ずかしくて車内でメイクなんぞできない。あの見苦しい車内メイクは是非ともやめていただきたい。

しかし、問題なのは何故このような意見が台頭してきたか、ということである。

プライベートの垂れ流しは以前からあった。喫煙、すなわち習慣性薬物の服用という極めてプライベートな行為を公の場で行う人は少なくない。公道で泥酔したり、或いは電車内でスポーツ紙のヌード写真を見るなど、同様のことは極めて一般的に行われている。

勿論、これらについてはきちんと批判は行われてきた。しかしそれは、「受動喫煙により周りに危害を加える」「面倒を見るのが迷惑だし、危険でもある」「セクハラ紛いである・性の商品化である」、といった異なる理由に基づいてのみ批判されてきた。「プライベートの垂れ流し」というものに基づく批判が一般化するには至らなかった。

要するに、「プライベートの垂れ流し」云々などは一般的には明確に意識されることはなかったのである。と、すれば何故ここにいたって急にこれが意識化されてきたのかを検討する必要がある。

結論から言うとこのことは、大部分の人にとって「プライベート・公」なんていうのは単なる後付の理屈に過ぎず、「ムカツク」「目障り」「見苦しい」という感情が先にあった、という証左のように思える。

その感情の正体についてはまだ大いに議論の余地がある。想像するには常識的な感性を持った女性達(性自認)の美意識への抵触だとか、「無視された」形の男性達(性自認)のプライドの問題だとか、そういうことではないかと思う。勿論、これに限らず多様な理由はあることだろうが。

自分の気持ちに合理的な説明を与えることは気持ちがよいが、自分が本当にそんなに合理的に考えたのかはよくよく検討する必要がある(自戒)。