異性装とドリアン

思うに、異性装とはドリアンのようなものであろう。

ただし、ここでは性別の基準を性自認に置いている。服装の好みに表れる性差は性自認を基に文化的体験を通じて形成され、多くの場合性自認に沿う傾向を見せるわけだが、その「服装の性」と正反対の服装をするケースがある。ここではそれを異性装と呼ぶする。従って、性同一性障害者に関しては精神医学的に用いられる意味での「異性装」とは意味が逆転している。

さて、異性装をドリアンに喩えたのは何故かというと、その癖の強さ故である。ドリアンは非常に癖の強い食べ物である。その匂いのために、近寄るのも嫌だという人もいる一方では、独特の風味を好む人もいる。

ドリアンを好む人にとってその匂いがなければそれはドリアンではない。その強烈な刺激があってこそドリアンなのである。しかし、彼らにしたところでもし毎日ドリアンのみを食して暮らせといわれたら、相当の対価でも得られない限りお断りであろう。

異性装はドリアン同様、非常に刺激的な体験である。その刺激の強さ故にそれを好む人もいる。性自認が完全に男性であるのに女装を好む男性は一定数存在するし、逆のケースもある程度はいる。そういえば、友人・栄里嬢も「男装してみたい」と言っていた。

一方、同じ理由でそれを酷く嫌う人もいる。自分に合わないタイプの強い刺激は甚だ不快なものである。

そして、それは非日常であるからこそ楽しみうるものである。異性装はご飯やパンではないのである。

そうして考えてみると、性同一性障害者が性自認に従った服装をしようとするケースが多いのも理解できるのではないかと思う。「ドリアンを食べないあなたなんか嫌い」と言われようが、「ドリアンを食べ続ければ100万出す」と言われようが、ドリアンばかりの日々はもう嫌なのである。

社会的・経済的な代償を支払わねばらないとしても、私はドリアンはもうお腹いっぱいである。