静かの海

先週から——そう、もう丁度1週間になる——、「私は一体なにをしているんだろう」という問いが頭を離れない。マネージャーに、私の利他的モチベーションはどこから来るのかと再び問われたから。私のオープンソースコミュニティに対する自然な貢献の欲求。オンラインのコミュニティへの恩恵の還元。そして、その延長としての会社の利益向上に対する意欲。確かに、直接の見返りを求めていないという点では利他的と見えるに違いない。でもそれが本当にはどういった性質のものであるのか、私にも良く分からない。

以前に同じことを問われたときには、私はコントリビュートすることによって得られる名誉を求めると答えた。ハッカーコミュニティーの常套句である。 エリック・レイモンドの名文 もこの精神に触れている。それは、あの文化の中で育った人間にとって自然なことだ。だって、誰もが他の誰かを助けることに喜びを感じて、それを正に実践しているその中で育ったんだから。

私のこの性質は昔からあったものには違いない。ミクロネシアに見られる贈与文化の価値観はそのヒントにはなるだろう。でも、少し違う。それは昨年春にGIDの診療が第2段階に移行してから特に顕著になった。何もかもが静かに聞こえる。こと私のケースに関する限り、これはGIDという問題と無関係ではないと私は思っている。私は一体なにをしているんだろう。何を求めて、何をしようとしているんだろう。

私が為すべき最大のことは為されつつある。私が望む最大のものはもう決して手に入らない。だから、だろうか。私にとっては残りのすべては余興なのかもしれない。為すべきことを為すために、もう何か余計なことをする必要はない。ただ、日々を続けることが大切だ。そして、どんなにあがいても私の望みは叶わない。ただ、叶えられる人の力になりたい。そうなのかもしれない。

私が人生の終わりの時に、良い人生だったと思えることはないと思う。人生の中での良かったこと、悪かったことを思い返しても納得しないと思う。私の好きな小説の登場人物は「プラスはマイナスを打ち消さない」と言っていた。でも、プラスとマイナスが打ち消し合ってもなお、私の主観に置いて私の人生はきっとマイナスだ。失敗だった。

もうそのマイナスはあまりに大きく、失われた物は決して戻らず、だから、せめて私は楽しみたい。静かに。だから、私はその場その場の刹那的な快楽と、他人がプラスを得る役に立つということ、そのことにしか関心がない。そうなのかもしれない。

今、私は幸せだと思う。これは納得とは別の問題だ。人生に納得はできないだろうけれど、私は今現在幸せで静かだ。もう、全てがあるべき状態になく混乱して感じることも拒絶して回遊魚のように必死になって疾走し続け或いはグレゴリー・ザムザのような毎朝を迎え或いは箱の中でリンゴが腐っていくのを見つめる——あぁ口にするのも嫌だけれど性別違和の日々とはそういう日々だ——、その嵐の音は今は遠くにある。

これがどういうものであるにせよ、今の私の態度がこの静けさに由来する物であるのは確かだろう。でも、この静けさは良いものだろうか。これは諦念なのか、これは成し遂げたことの満足なのか、それともこれは鬱がもたらす無気力の変形に過ぎないのか。あるいは、あるいは本当は私はもう納得しているのだろうか。

私が何をしようとしていて、この静かな幸せが何なのか、私には分からない。