羊のうた

羊のうた」はとても好きだった。たしか、初めは表紙に惹かれて買った筈。

生まれついた運命に抗い切れず収斂していく未来。横たわる終局を知りながら作り出す、不安な中にも少しだけ落ち着いた、小さな閉じた空間。ようやく知る、嵐の聞こえない夜のあること。そして、そんな小さな世界さえも崩壊していく。構図の1つ1つから、生ぬるくて静かでそれがとても心地よい、そんな空気の質感が伝わってくる。私はそれにとても共感したと記憶している。時間と空間の感覚が、好みだったのかも知れない。

私が私でいられる時間が少しずつ減っていく。そして遂に尽き果てようとするところに現れる同道、守らなくてはいけないもの。追われる者としての存在。隔離。心地よい閉塞。生きていく方法を初めて知る。自分と同じで、でも未来がある者。僅かばかりの平穏。でもそれが長くは続かないことを知っている。迫ってくる終わり。それは当時の私にとって非常に重ね合わせやすいものだった。まさに、吸血病の代わりにGIDを中心として私はそういう状態にあったのだから。

久しぶりに「羊のうた」を読んでみた。そして、私が変わったということを改めて感じさせられた。あの、刻一刻と自分が切り刻まれ無くなっていく、私が「私でない何か」に置き換わっていくあの焦燥と恐怖が今の私の中には無い。一息一息が紫色の毒液を吸い込むように感ぜられる息苦しさ。性別違和、異質な感覚入力が私の輪郭を侵犯して「私が私であるということ」を破壊していく音。その攻勢に削り取られ、遠からず私という存在がその本質までも消えいくという確かな予感。それが、今は無い。

パキシルの効果もあるだろうけれど、でもこの変化を漠然と感じ始めたのは飲み始めるよりもだいぶ前だ。おそらくは、これがホルモン療法の効果として素っ気なく「葛藤を解消する」と書かれていたものなのだろう。

この前、 栄里ちゃん の家で一度だけ久しぶりに大きな性別違和の波に襲われた。彼女が付いてくれていたので、随分楽にはなったけれど。でも、思えば以前はこれが日常だった。今の私は、単にその残滓としてのうつとパニックに悩まされているに過ぎない。それもかなり軽いほうで、薬である程度までは制御できるものだ。

私という存在がまさに砂時計の流れる砂のように崩れて消えていくあの日々は終わった。これからは、失ったものや時間を取り戻したり諦めたりしながら、「何もないもの」に飲み込まれることを恐れずにゆっくりと回復していけるのかも知れない。